心理的安全性という言葉が会議で出てくるようになって、正直、少しやりにくくなった。「うちは心理的安全性が高いから、なんでも言ってね」と上長が言う。その一言で、言えなくなる何かがある。言わなければ「安全なのに言わないほう」が悪いことになってしまうからだ。
この言葉はもともと、そういう使われ方をする概念ではなかった。原典にあたると、書いてあるのはもっと乾いた話だ。ここでは、心理的安全性という概念が研究の中でどう定義され、何が確かめられていて、どこから先は言えないのかを、発言しにくい側の視点から見直してみたい。
「和やかな職場」のことではない
出発点は、Amy Edmondson が1999年に Administrative Science Quarterly に発表した論文だ。この論文が「チーム心理的安全性(team psychological safety)」という構成概念を導入した。
定義はこうだ——そのチームは対人的なリスクを取っても安全だ、というメンバーに共有された信念。
対人的なリスクというのは具体的で、論文が挙げているのは、助けを求める、間違いを認める、フィードバックを求める、意見の違いを口に出す、といった行動である。これらはどれも、自分が無能に見えたり、面倒な人に見えたりする危険を伴う。論文はゴフマンの「面子(face)」の研究を引きながら、人は職場でこの種の行動を避けがちだと整理している。
ここで押さえておきたいのは、Edmondson がこの用語についてわざわざ否定形で釘を刺していることだ。原典には、この語が意味するのは「無頓着な放任」でも「絶え間なく前向きな空気」でもない、と書かれている。意味するのは、発言したことでチームから恥をかかされたり、拒絶されたり、罰されたりはしないという確信のほうだ。
さらに、集団凝集性(メンバー同士の仲の良さ)とも同じではないとはっきり区別している。理由も明快で、凝集性はむしろ異論を唱える意欲を下げうるからだ——集団思考(groupthink)がその例として挙がっている。
つまり、仲が良いことと、言えることは、研究上は別のものとして設計されている。「うちのチームは仲がいいから安心」という理屈は、原典の側からは支持されていない。
51チームで実際に見えたこと
Edmondson が調べたのは、ある製造業企業の51チームだ。427人のメンバーが調査票に回答し(回収率86%)、それとは別に、チームの外にいて仕事の受け手となる管理者たちにもチームの学習行動と成果を評価してもらっている(150人中135人が回答、91%)。自己申告だけで完結させない設計になっている。
結果はこうだった。
- 心理的安全性が高いチームほど、学習行動(助けを求める、情報を共有する、失敗を話題にする、試してみる)が多かった
- チーム効力感(自分たちならやれるという自信)についての結果は割れた。自己申告の学習行動を使うと、心理的安全性を統制したチーム効力感は説明力を失う。しかし観察者評価の学習行動を使うと、チーム効力感は有意なまま残る。論文自身はこの仮説について「支持は混在(mixed)」と結論している
- 学習行動は、心理的安全性とチーム成果の間を媒介していた。心理的安全性と学習行動を同時にモデルに入れると、心理的安全性の効果は有意でなくなり(B = .25, p = .42)、学習行動のほうが残った
最後の点が個人的にはいちばん重要だと思っている。心理的安全性それ自体が成果を生むのではなく、それがあると人が学習行動を取れるようになり、その行動が成果につながるという順序だ。だから「安全な空気を作る」だけで話が終わるなら、途中で切れている。
ただし、この研究は1社を対象とした横断調査で、心理的安全性も学習行動も主に質問紙で測られている。因果の向きを実験的に確かめたものではない。この1本だけで「心理的安全性が成果を生むことが証明された」と読むのは行きすぎになる。
黙るのは、性格ではなく計算だ
「言いたいことが言えない」を、内気さや自信のなさの問題として片づけたくなる場面は多い。私も長らく、自分が黙るのは自分の性格のせいだと思っていた。
けれど原典が置いている構図は違う。人が発言を控えるのは、発言のコストが見えているからだ。論文は、間違いを認めたり助けを求めたりすることが昇進・昇給・仕事の割り振りに関わる人からの評価を悪くしうる、という現実的な計算に触れている。これは臆病さではなく、環境を読んだ判断である。
1999年の論文が、Edmondson 自身の1996年の病院研究から引いている対比が、この差をよく表している。ある患者ケアチームの看護師は「薬は毒性があるから、ミスは重大。だから師長に伝えるのを怖がることはない」と当たり前のように語り、同じ病院の別チームの看護師は「吊るし上げられる。ミスをしたなんて思われたくない」と語った。同じ病院、同じ職種で、正反対だ(これは51チームの調査結果ではなく、そこに至る問題意識として引かれている先行研究のほうである)。
日本の統計にも、似た隙間が見える。厚生労働省の令和6年「労働安全衛生調査(実態調査)」では、仕事のストレスについて相談できる人がいる労働者は94.6%にのぼる。ところがそのうち、実際に相談したことがある人は74.7%にとどまる。「相談できる相手はいる」と「実際に言った」の間に、25ポイントほどの落差がある。
ただしこの25ポイントを全部「言えなかった人」と読むことはできない。同じ調査では、強いストレスとなる事柄が「ない」労働者が31.1%いる。相談していない人の中には、そもそも相談する必要がなかった人が相当数含まれるはずだ。
同じ調査では、強い不安・悩み・ストレスとなっている事柄がある労働者は68.3%で、その内容(主なもの3つ以内、事柄がある人を100とした割合)は「仕事の量」43.2%、「仕事の失敗、責任の発生等」36.2%、「仕事の質」26.4%、「対人関係(セクハラ・パワハラを含む)」26.1%と並ぶ。なお令和6年調査は前年から設問の形式が変更されており、調査自身が数値の比較に留意を求めている。
この統計は心理的安全性を測ったものではないから、そのまま重ねて読むことはできない。それでも、「相手はいるのに言わない」という選択がそれなりの頻度で起きていることはうかがえる。言わない理由を性格だけに還元してしまうと、この落差はうまく説明できない。
職場で意見を出すことそのものについては内向的な人が職場で意見を言えるようになる方法にも書いた。
メタ分析でどこまで言えるのか
原典から四半世紀が経ち、この分野は膨大な数の研究を抱えている。それを統合したのが、Frazier らが2017年に Personnel Psychology に発表したメタ分析だ。
規模はかなり大きい。136の独立標本、22,000人超の個人、約5,000のグループを統合している。著者らが挙げている狙いは4つ——先行要因どうしの効果量を比較して「どれが相対的に効くのか」を見ること、心理的安全性が上司との良好な関係やワークエンゲージメントといった近い概念を超えて課題遂行や組織市民行動を説明するかを検討すること、研究デザインの特徴や国の文化が関連の強さを変えるかを調べること、そして個人レベルと集団レベルで効果量が同じ形をしているか(homology)を検証すること。
正直に書いておくと、この論文の本文は購読が必要で、私が確認できたのは公開されている抄録の範囲にとどまる。だからここでは、個々の相関係数を引くことはしない。抄録から確実に言えるのは、心理的安全性が単発の流行概念ではなく、先行要因と結果の網の中に位置づけられるだけの実証の蓄積があるということ、そして関連の強さが文化や測定レベルによって変わりうるという前提で研究されているということだ。
この「文化で変わりうる」という点は、日本で読むときに効いてくると思う。文化差が検討課題として立てられているということは、どこかの国で得られた関連の強さが、そのまま別の国で再現するとは限らないということだ。海外で積み上がった知見を、同じ強さで日本の職場に持ち込める保証はない。
静かな人にとって、この概念は何なのか
ここから先は研究の要約ではなく、私がこれらを読んで考えたことになる。
心理的安全性は、個人の資質ではなくチームの属性として定義されている。原典でも、チーム間で差が出る変数であること(同じチームの中では回答が揃い、チーム間ではばらつく)を確かめたうえで集団レベルの変数として扱っている。ここは静かな人にとって、地味だが大きい。
言えないのは自分が弱いからだ、という説明の仕方を、この定義は要求していない。同じ人が、あるチームでは口を開き、別のチームでは黙る。それは先ほどの看護師の対比がそのまま示していることだ。
一方で、逆向きの誤読にも気をつけたい。「言えないのは全部職場のせいだ」と読むと、今度は自分にできることが何もなくなる。原典が心理的安全性の先行要因として検討したのは、チームへの文脈的支援(情報・資源・報酬が届いているか)とリーダーのコーチング行動だった。ただし有意だったのは文脈的支援のほうで、コーチングは有意水準の手前(p = .06)にとどまる。しかも著者自身が、先行要因についての知見は暫定的(tentative)と考えるべきだと限界として書いている。予測変数と心理的安全性が同じ調査票から得られているためだ。
それでも、環境が完全な固定物ではないことは示唆されている。個人の努力で環境を書き換えられるという話ではないが、変わりうる余地はある。
私自身は、いまのところこう受け取っている——発言できるかどうかは、自分の勇気の量ではなく、自分がいまいる場所の性質を測るセンサーの出力だ。センサーが「危険」と出ているなら、まず疑うべきは自分ではなく、測られている対象のほうかもしれない。
内向的な気質そのものについては内向性・外向性に、人前での緊張や恥ずかしさの研究上の扱いについてはシャイネス(内気さ)に整理してある。静かであることが組織の中でどう働きうるかは内向型のリーダーシップ——静かな人が持つ5つの強みにも書いた。
環境が変わらないとき
センサーが何年も「危険」と出続けている場合、どこかで環境そのものを検討する話になる。ここは研究の話ではなく、現実的な選択肢の整理だ。
心理的安全性はチームの属性として定義されている以上、部署異動でも変わりうる。転職しか手がないと思い込む前に、同じ会社の別チームがどうかを見てみる価値はある。原典で観察されたのも、同じ会社の中でチーム間に差があるという事実だった。
それでも動かないなら、職場を変える検討に入る。仕事が合わないという感覚の解きほぐし方は仕事が向いてないと感じるときに、実際の進め方は内向型・繊細な人向けの転職サイト・エージェント選びにまとめてある。
なお、職場で発言できない状態が続いて、眠れない・食べられない・気分の落ち込みが抜けないといった変化が出ているなら、それは職場の問題であると同時に体の問題でもある。産業医や医療機関、公的な相談窓口(厚生労働省のこころの耳など)に相談してほしい。ひとりで環境を評価し続けるのは、しんどい作業だ。
よくある質問(FAQ)
心理的安全性が高い職場とは、みんなが仲良しの職場のことですか?
違います。Edmondson の1999年の原典は、心理的安全性を集団凝集性(メンバー同士の仲の良さ)と明確に区別しています。理由として挙げられているのは、凝集性はむしろ他者の見解に異を唱える意欲を下げうるという点で、集団思考(groupthink)がその例として示されています。原典はまた、この用語が「無頓着な放任」や「絶え間なく前向きな空気」を意味するものではないとも明記しています。
心理的安全性があれば、チームの成果は上がるのですか?
原典の分析では、心理的安全性は直接ではなく、学習行動を通じて成果とつながっていました。心理的安全性と学習行動を同時にモデルに入れると心理的安全性の効果は有意でなくなり(B = .25, p = .42)、学習行動が残っています。ただしこれは1社51チームの横断調査であり、因果関係を実験的に確かめたものではありません。「心理的安全性を高めれば成果が上がることが証明された」と言い切れる強さのエビデンスではない、というのが正確な現状です。
発言できないのは、自分が内気だからではないのですか?
研究上の定義では、心理的安全性は個人の性格ではなくチームの属性として扱われます。原典でも、同じチーム内では回答が揃い、チーム間ではばらつくことを確認したうえで集団レベルの変数として分析されています。1999年の論文が先行研究(Edmondson 1996年の病院研究)から引いている例では、同じ病院の別々の患者ケアチームで、ミスを報告することへの受け止めが正反対でした。もちろん個人差が無関係だという意味ではありませんが、「言えない=自分の性格の問題」と自動的に結論づける根拠は、この研究にはありません。
上司が「なんでも言っていい」と言えば心理的安全性は高まりますか?
宣言だけで測られるものではありません。原典で心理的安全性の先行要因として検討されたのは、チームへの文脈的な支援(情報・資源・報酬が届いているか)とリーダーのコーチング行動でした。言葉より、発言したあとに実際に何が起きるかのほうが、共有された信念を形づくると考えるほうが定義に沿っています。
日本の職場にも同じ研究結果を当てはめられますか?
慎重に扱うべきです。Frazier らの2017年のメタ分析は、国の文化が関連の強さを変えるかどうかを検討課題として掲げています。つまりこの分野自体が、文化によって効果が一様ではありうるという前提で進んでいます。海外で蓄積された知見を、そのままの強さで日本の職場に持ち込めるとは限りません。なお、この論文の本文は購読が必要なため、標本の国別構成までは確認できていません。
「心理的安全性を高めよう」というスローガンは、たいてい高める側の言葉として使われる。でも原典を読むと、この概念はもともと、黙っている人がなぜ黙っているのかを説明するために作られている。順番が逆なのだ。
言えなかった会議の帰り道に自分を責めたことがあるなら、その日測っていたのは自分の弱さではなく、部屋の温度だったのかもしれない。