三章目までしおりが挟まった本が、机の端に何冊も積まれている。買ったときは全部読むつもりだった。始めた語学アプリの通知は切ったままで、ギターは去年からケースを開けていない。飽き性、という言葉が刺さるのはこういう景色を思い出すときだ。

たいてい、この話は「根性がない」という結論に落ちる。自分でもそう思って落ち込むし、他人からもそう言われる。

ただ、ここには検証できる主張が混ざっている。続かないことは、本当に成果の少なさとイコールなのか。飽きるという状態は、そもそも何が起きているのか。研究のほうから見てみたい。

読みかけのまま積まれた本

「続かない」と「やり切れない」は、同じではなかった

ここ十年、成功を語るキーワードとして「グリット」(grit)がよく持ち出された。日本語では「やり抜く力」と訳される。長期的な目標に向けて情熱と粘り強さを保つ力、とされ、才能より重要だと紹介されることも多かった。

このグリットは、二つの下位側面から測られる。努力の粘り強さ(perseverance of effort)と、興味の一貫性(consistency of interest)だ。前者は困難があっても手を止めないこと、後者は関心が移り変わらないこと。飽き性という日常語はこの両方に跨るけれど、より近いのは後者だろう。

2017年、Credé、Tynan、Harmsは、グリット研究を集めてメタ分析した。88の独立したサンプル、66,807人分のデータ、584の効果量。結果はグリット推しの語り口とはかなり違うものだった。

まず、グリットを一つの上位特性とみなす構造は確認されなかった。成績や継続との相関は中程度にとどまり、いっぽうで誠実性(conscientiousness)とは非常に強く相関していた。つまり「グリット」という新しい看板の中身は、既存のパーソナリティ因子とかなり重なっている。

そして飽き性にとって肝心なのはここだ。努力の粘り強さのほうが、興味の一貫性より有意に強い基準関連妥当性を持っていた。 さらに、努力の粘り強さは誠実性を統制した後でも学業成績の分散を説明していた。

ここは正確に受け取りたい。興味の一貫性が成果と無関係だった、という結果ではない。二つを比べたとき、成果との結びつきが有意に強かったのは努力の粘り強さのほうだった——差の話だ。

それでも、意味は小さくないと思う。「やり抜く力」の看板で語られてきたもののうち、より効いていたのは飽きなさの側ではなかった。ここから先は私の受け取り方になるが、飽き性を責めるときに持ち出される理屈の足場は、思っていたより弱い。三章で止まった本の冊数を、自分の見込みの指標として数える必要はないのだろう。

退屈しているとき、体は静まっているのか

もう一つの疑問は、飽きるという体験そのものだ。

「退屈」を思い浮かべると、たいていは机に頬をつけてぼんやりしている絵が浮かぶ。ところがもう一つ、そわそわして貧乏ゆすりが止まらない退屈もある。会議の後半で、聞いていないのに体だけ落ち着かない、あれだ。どちらが本当の退屈なのかは、長く論争になってきた。

2025年、Stempferらが『Communications Psychology』に報告したメタ分析が、この論争を数字で整理している。退屈と覚醒(arousal)の関係を扱った研究から、72のサンプル・6,570人・214の効果量を集め、三層のランダム効果モデルで解析したものだ。

結果はこうだった。相関研究(75の効果量)では、退屈が強く体験されているほど覚醒は低かった(r̄=−.13、95%信頼区間−.22〜−.05)。実験研究(122の効果量)では、退屈条件はさまざまな統制条件と比べて有意に覚醒が低かった(d̄=−0.40、95%信頼区間−0.59〜−0.22)。

著者らの結論は、この平均のほうを主に採っている。利用可能な相関・実験のエビデンスは低覚醒の退屈を指しており、それが典型(modal)な退屈体験だ、という整理だ。低覚醒という捉え方は、退屈が疲労感や落ち込み、意欲やインスピレーションの欠如と近い関係にあることとも噛み合う、とも述べている。

ただし論文はもう一つ、ばらつきの大きさにも紙幅を割いている。効果量には有意な不均一性があり、退屈と覚醒の関係は測り方によって動いていた。退屈の尺度に高覚醒や混合の項目が含まれるとき、覚醒を心拍変動で測ったとき、そして実験的に誘発した退屈を「待つ」「何もしない」といった中性の統制条件と比べたときには、関係は有意ではなくなった。この調整変数の分析からは、覚醒が変動する状態という捉え方のほうが合う、とも述べられている。研究の質の評価や出版バイアスの検討では、全体として偏りのリスクは小さいか無いと判断されている。ただし論文自身が限界として、単一項目の尺度に頼った相関研究など一部のカテゴリではリスクが認められること、そして含まれた研究の統計的検定力の中央値が43.90%にとどまることを挙げている。

まとめると、平均としては低覚醒寄り(相関ではr̄=−.13と小さく、実験では d̄=−0.40 で小から中程度)、ただし条件によっては関係が消える、ということだ。

飽き性の話に引き寄せるなら、「飽きるのはやる気が落ちているから」という説明は、平均の水準では的外れではない。ただし一枚の説明では足りない。落ちているように見える場面もあれば、測り方や比べる相手を変えると差が出ない場面もある。課題の刺激と自分の状態の噛み合わせについては最適覚醒水準の考え方も参考になる。

「刺激が足りない」側から見ると、別の顔をしている

飽き性を「続かない欠点」ではなく「刺激の量を調整する動き」として見る枠組みもある。

Marvin Zuckermanが1994年の著書で体系化した刺激追求(sensation seeking)は、新奇で多様な、強度のある体験を求め、そのためにリスクを引き受ける傾向として整理された概念だ。この傾向には個人差があり、生物学的な基盤との関連が長く議論されてきた(概念の位置づけは用語辞典にまとめた)。

同じ作業を続けているときのあの手応えのなさを、「意志の問題」と読むか「入力が足りていない状態」と読むかで、次の一手は変わる。前者なら自分を叱ることになるが、後者なら環境を変える話になる。刺激を求める傾向と、刺激を受け取りやすい性質の関係についてはHSS型HSPに科学的根拠はあるかに出典付きで整理してある。

念のため書いておくと、刺激追求の高さ・低さで人を分類したいわけではない。飽き性という一語の中に、性格の欠点としてではなく説明できる部分がある、という話だ。

飽きやすさが、困りごとになるとき

ここまでは擁護寄りに書いてきたが、退屈しやすさが実際に負担になっている場合もある。

2000年、SommersとVodanovichは大学生200人に退屈傾向尺度(Boredom Proneness Scale)とホプキンス症状チェックリストを実施した。多変量共分散分析(MANCOVA)の結果、退屈傾向の得点が高い人は、5つの下位尺度すべて——強迫、身体化、不安、対人感受性、抑うつ——で有意に高い評点を報告していた。

この研究の限界はきちんと押さえておきたい。学生200人を対象とした観察研究で、指標はすべて自己報告だ。どちらが原因かは分からないし、この結果から「飽き性の人は心の病気になりやすい」とは言えない。ただ、退屈しやすさが症状の訴えと一緒に現れることがある、という手がかりではある。

だから、続かないことが自分を責める材料にしかなっていないとき、あるいは何をしても味がしない感覚が長く続くときは、性格の問題として一人で抱えないほうがいい。抑うつでは興味や関心が失われることがあり、飽き性とは別の話として扱う必要がある。心療内科や精神科、職場の産業医や相談窓口が入口になる。厚生労働省のこころの耳に相談先の情報がまとまっている。

折り合いのつけ方

  • 「続けること」より「取り組んでいる最中に手を抜かないこと」を数える。二つを比べたとき、研究で成果とより強く結びついていたのは後者だった
  • 飽きたら中断していい前提で始める。三章で止まるのを失敗と定義しなければ、四冊目を開けるまで積んでおくだけの話になる
  • 同じ目的を、違う入口で複数持つ。運動なら泳ぐ・歩く・登る。飽きたら乗り換えれば、目的のほうは切れない
  • 「ぼんやり型」「そわそわ型」に分類しようとしない。Stempferらは、研究の場面でも高覚醒と低覚醒への単純な二分は適切でない可能性があり、こうしたカテゴリはむしろ誤解を招きうると注意している。自分の退屈をラベルに当てるより、その日の課題と環境を触ってみるほうが早い

習慣を「気合いで続ける」以外の形にする話はやさしく習慣をつくるに、集中が切れたあとの戻り方はマルチタスクが苦手な理由に書いた。

よくある質問(FAQ)

飽き性は直したほうがいいのでしょうか?

直す前に、何を直したいのか分けたほうがいいと思います。Credéらのメタ分析では、「努力の粘り強さ」のほうが「興味の一貫性」より有意に強い基準関連妥当性を持つという結果でした。興味の一貫性が成果と無関係だった、という結果ではありません。ただ、二つを比べたときに成果とより強く結びついていたのは前者です。困っているのが「取り組み中に手を抜いてしまう」ほうなのか、「関心が移る」ほうなのかで、手を入れる場所は変わります。

飽き性なのは、やる気や覚醒の低さのせいですか?

Stempferらのメタ分析の結論は、低覚醒の退屈が典型的だという方向です(相関研究でr̄=−.13、実験研究でd̄=−0.40)。低覚醒という捉え方は、退屈が疲労感や意欲の欠如と近い関係にあることとも噛み合うと述べられています。ただし効果量には有意な不均一性があり、退屈尺度の種類や覚醒の測り方、統制条件の種類によって関係は変わり、条件によっては有意でなくなりました。平均としては当たっているが、一本の説明では足りない、という整理になります。

飽き性と刺激追求は同じものですか?

同じではありません。刺激追求はZuckermanが体系化した、新奇で多様な、強度のある体験を求めてリスクを引き受ける傾向を指す概念です。飽き性という日常語のほうは、続かなさ・関心の移りやすさ・退屈しやすさなどを一緒に含んでいます。重なる部分はありますが、一対一で置き換えられる関係にはありません。

何をしても飽きてしまい、つらいです

退屈しやすさが症状の訴えと一緒に現れることは報告されています(SommersとVodanovichの研究では、退屈傾向の高い人が5つの症状下位尺度すべてで高い評点でした)。ただしこれは学生200人の自己報告による観察研究で、因果は分かりません。何をしても味がしない状態が続く、以前は楽しめたことが楽しめない、といった場合は、性格の話として片づけずに心療内科や精神科、またはこころの耳の相談窓口に相談してください。

飽き性でも続けられる仕事の選び方はありますか?

一般解は出せませんが、「一つのことを長く続ける形」以外にも仕事の続け方はあります。案件が入れ替わる、扱う対象が定期的に変わる、季節で業務内容が動く——同じ職でも中身の変動幅は大きく違います。長く続いている人が飽きていないとは限らない、という視点も持っておくといいと思います。


机の端の本は、たぶんこれからも積み上がる。読み終える気配のない三章目のしおりを、失敗の記録として数えるのをやめただけで、本を開く回数はむしろ増えた。飽きるのは、始めた回数が多いということでもある。