飲み会の帰り道に、急に恥ずかしくなることがある。あの流れで、あんなに自分の話をする必要はなかった。相手は面白がってくれていたようにも見えたけれど、あれは気を遣わせただけかもしれない。
「自分のことを話せば距離が縮まる」というのは、対人関係の助言としてかなり定番の部類に入る。心を開けば相手も開いてくれる、と。ただ、この一文が本当に一つのことを言っているのかは、案外あやしい。誰が話して、誰が好きになるのか。それを混ぜたまま議論すると、噛み合わなくなる。
研究の側は、そこをきちんと分けていた。分けたうえで測ってみたら、効き方は場面によってかなり違っていた。
そもそも「自己開示すると好かれる」は3つの別の話だった
Collins と Miller が1994年に Psychological Bulletin に発表したメタ分析は、この領域の見取り図を書き直した仕事にあたる。
彼女たちがまず指摘したのは、それまでの研究が「自己開示と好意の関係」という一つの旗のもとに、実は別々の現象を放り込んでいたということだ。論文はこの分野の状況を、整理されておらず混乱していると評した先行の記述を引きながら紹介している。
そこで、3つの効果に切り分けた。
効果1——よく開示する人は、そうでない人より好かれるか。話し手の行動と、聞き手の印象の関係である。 効果2——人は、もともと好きな相手に対してより多く開示するか。自分の好意が原因で、自分の開示が結果になる。 効果3——誰かに開示したことによって、その相手を好きになるか。自分の開示が原因で、自分の好意が結果になる。
日常会話で「自己開示は関係を深める」と言うとき、私たちはたいてい効果1のことを考えている。ところが、メタ分析が最も強い関連を見つけたのは効果2だった。
数字を並べる。効果1の全サンプル(94の効果量)は d = .281(r = .139)。効果2の全サンプル(31の効果量)は d = .717(r = .338)。効果3(5つの効果量)は d = .317(r = .156)である。
いちばん大きいのは効果2、「人は好きな相手に多く話す」だった。ただし、関連の大きさと、方向の確からしさは別の話である。ここを混ぜると読み違える。
効果2の大きさは、既存の関係についての自己報告研究に引っ張られている。相関研究だけを取り出すと d = 1.105 と跳ね上がり、初期の好意を操作した強い実験では d = .449、弱い実験では d = .277 まで下がる。論文自身、脚注でこれらの研究から因果の結論は導けないと断っている。
一方、効果1のほうには57本もの強い実験が含まれている。開示の水準を操作したうえで、受け手の好意を測るデザインだ。そこでの平均は d = .272 と小さい。それでも論文は、この統制された実験群について、初対面の場面では開示の水準が高いほど開示者への好意が高まるという因果関係を推論できると明記している。
つまり、効果量がいちばん大きいのは「好きだから話す」で、実験によって方向を分離できているのは「話せば好かれる」のほうだ。この二つは競合しない。論文は最後に、3つの効果が独立に働くのではなく、対人・個人内の相互影響からなる動的なシステムとして生じている、という見方を提示している。ジョンがメアリーに話す、メアリーが好きになる、それでジョンがまた話す——そういうループとして描かれている。
自分が話したことで、相手を好きになる
効果3も面白い。該当した5研究はすべて強い実験デザイン(開示量を操作したうえで、相手が返報する前に好意を測る)だったため、論文はここでも因果関係を推論できると書いている。より親密な開示をした人は、その開示の受け手をより好きになる、という向きである。
自分が話したから、相手を好きになる。順番としては直感に反する。
もっとも、基盤は厚くない。5研究のうち3つは効果量がゼロで、大きな効果を示したのは2つだけだった。異質性の検定は有意で、なぜ分かれたのかは研究手続きを見返しても分からなかった、と正直に書かれている。効果1の強い実験が57本あるのに対し、こちらは5本である。

実験室では効いた関連が、現実の場面では逆を向いた
このメタ分析でいちばん引っかかったのは、調整変数の表だった。
効果1を研究パラダイム別に分けると、こうなる。関係性調査(既存の関係についての自己報告)が d = .845(r = .389)と最も大きい。実験室での知り合い場面が d = .378。人物印象形成の課題が d = .191。そしてフィールド研究が d = −.308(r = −.152)。
最後の行は符号が逆だ。現実場面で行われた研究では、開示の多さは好意の低さと結びついていた。
この差をどう読むかは難しい。フィールド研究の効果量はわずか6つで、それだけで一般化はできない。ただ、著者らは実験室パラダイムの外的妥当性について、率直な懸念を書いている。実験参加者は顔も見ない相手とやりとりし、メモを回す、インターコム越しに話す、エッセイを書くといった不自然な経路で「会話」する。その結果、現実場面で働く社会的規範や会話のルールが、そもそも作動できない設計になっている、と。
私はこの部分を読んで、飲み会の帰り道の恥ずかしさに少し説明がついた気がした。あの気まずさは自意識過剰ではなく、場に対して適切かどうかという別の変数が働いているだけかもしれない。
論文が挙げている調整変数を並べると、その感覚はもう少し具体的になる。
- 相手が自分にだけ話してくれたと感じたか(パーソナリティック帰属)。そう感じた条件は d = .453、そうでない条件は d = .228。方向は予測どおりだったが、この差は有意には達していない
- 開示の性別。女性の開示者は d = .304 で有意、男性の開示者は d = .105 で有意にならなかった
- 深さか、量か。親密さの水準を操作・測定した研究(d = .324)は、情報の量を扱った研究(d = .195)より大きな関連を示した(有意差あり)
「たくさん話す」より「どれくらい踏み込んだ話をするか」のほうが効いている、というのは覚えておいていい区別だと思う。
なお、開示が親密すぎると逆に好かれなくなる、といういわゆる逆U字の仮説については、このメタ分析は明確な支持を見つけていない。高開示と低開示の比較は d = −.010、中開示と低開示は d = .089 で、どちらもゼロと有意に違わなかった。ただし研究数が少なく、研究間で開示水準の比較が難しいという留保つきである。
開示は、それ自体が報酬になっている
なぜ人は、聞かれてもいないのに自分の話をしてしまうのか。この問いに脳と行動の両側から答えようとしたのが、Tamir と Mitchell が2012年に PNAS に発表した研究だ。
5つの研究からなる。fMRI を用いた研究では、自分の意見を開示する試行が他者の意見を判断する試行と比べて、両側の側坐核でより大きな反応を示した(n = 78)。別の研究では、自分の性格についての信念を述べる条件が他者の特性を判断する条件と比べ、両側側坐核と腹側被蓋野の反応を高めた(n = 117)。
行動側の検証がわかりやすい。参加者は、金銭報酬と引き換えに質問の種類を選べる課題に取り組んだ。結果、自分についての質問に答えるために、参加者はお金を手放した。1試行あたり平均0.63セント(n = 37)で、獲得しうる報酬の平均17%を失う計算になる。別の研究では、自分について話しかつそれが他者に共有される条件で、1試行あたり約0.97セント、獲得しうる報酬の約25%を手放していた(n = 41)。
セント単位の金額を「大きい」と読むのは無理がある。ただ、自分の話をする機会に正の価格がついたという事実の向きは、はっきりしている。
エビデンスの強さについては正確に書いておきたい。これは単一の論文であり、脳画像の研究のひとつは n = 17 と小さい。著者ら自身、側坐核や腹側被蓋野の活動が報酬以外の信号にも反応しうる曖昧さを認めており、それを行動研究で補ったと説明している。「自己開示は脳の報酬系を活性化させることが証明された」という要約は、この論文が支えている範囲より一歩踏み出している。
話す側と、聞く側で、感じ方が違う
もうひとつ、順序をひっくり返す知見がある。
Sprecher、Treger、Wondra が2013年に Journal of Social and Personal Relationships に発表した実験は、面識のない大学生118人(81.4%が女性、平均19.89歳)をペアにし、Skype 越しに12分間の構造化された自己開示のやりとりを2回行わせた。1回目は、どちらが話し手でどちらが聞き手になるかをランダムに割り当てる。2回目で役割を交代する。
1回目の後、より強い好意を報告したのは聞き手のほうだった(M = 5.73 対 5.43)。親近感も、楽しさも同じ方向で、効果量は d = 0.32〜0.38 と中程度以下だった。
そして2回目、役割を交代すると差は消えた。最初に話し手だった人は、聞き手に回ったところで好意が大きく上がった。最初に聞き手だった人は、話し手に回っても大きくは変わらなかった。
ここから先は私の見方になる。この結果は「話しすぎるな」という教訓ではないと思う。むしろ、片方だけが話す時間が続く構造そのものが、話し手にとって割の合わない配置になっている、と読める。一方的に打ち明けた側が帰り道に落ち着かないのは、たぶん自然な反応だ。交代さえ起きれば、その差は埋まっていた。
この研究も、面識のない大学生を対象とした一回きりの実験である。長期の関係にそのまま当てはめられるものではない。
日本語圏では、「深さ」がこう測られている
最後に、足元の研究にも触れておきたい。
丹羽空と丸野俊一が2010年に『パーソナリティ研究』に発表した尺度開発の研究は、大学生299人を対象に、自己開示の深さを測る尺度を作っている。段階は4つ。レベルIが趣味、レベルIIが困難な経験、レベルIIIが決定的ではない欠点や弱点、レベルIVが否定的な性格や能力である。
この尺度は、相手との関係性に応じて開示の深さが変わることを識別でき、親和動機や心理的適応度の既存尺度との相関から理論的妥当性が確認された、と報告されている。
段階が言語化されていることの実用的な意味は小さくない。「自己開示が苦手」と感じるとき、レベルIVができないことを指しているのか、レベルIIで止まっているのか、そもそも相手によって出し分けができていないのか——ぜんぶ違う話だからだ。ちなみにこの研究は、あなたがどのレベルにいるべきかを決めるものではない。関係性に応じて深さが変わること自体を、尺度が拾えるように作られている。
雑談そのものの入り口でつまずいている感覚については雑談が苦手な理由の記事、初対面の場面での具体的な進め方は初対面の会話の記事にまとめてある。人の感情を受け取りすぎて疲れてしまう側の話は共感疲れと境界線の記事のほうが近い。
刺激や他者の情動をどれくらい拾いやすいかには個人差があり、感覚処理感受性や共感性といった枠組みで研究されてきた。開示の適量も、そこから先は人によって違っていい。
よくある質問(FAQ)
自己開示すれば相手と仲良くなれますか?
「開示すれば好かれる」という関連は確認されています。Collins と Miller のメタ分析では全サンプル94の効果量で d = .281(r = .139)と大きくはありませんが、そのうち57本は開示水準を操作した強い実験で、論文はこのサブセット(d = .272)から、初対面の場面では開示の水準が高いほど開示者への好意が高まるという因果関係を推論できると述べています。効果量がより大きかったのは「もともと好きな相手に多く開示する」という向き(d = .717、r = .338)ですが、こちらは相関研究に牽引されており、論文自身が因果の結論は導けないと留保しています。
たくさん話したほうが距離は縮まりますか?
情報の量より、踏み込みの深さのほうが関連は大きく出ていました。Collins と Miller のメタ分析では、親密さの水準を扱った研究(d = .324)が情報の量を扱った研究(d = .195)より有意に大きな効果を示しています。ただしこれは実験室研究が中心で、現実場面で行われたフィールド研究では逆向きの関連(d = −.308)が報告されており、研究数も6つと少ないため、結論を急ぐことはできません。
打ち明けすぎると引かれますか?
親密すぎる開示が好意を下げる、という逆U字の仮説を、このメタ分析は明確には支持していません。高開示と低開示の比較は d = −.010、中開示と低開示は d = .089 で、いずれもゼロと有意に違いませんでした。ただし対象研究が少なく、研究間で開示水準を比較しづらいという留保が付いています。場面に対して適切かどうかという別の要因も、調整変数として検討されています。
自分の話をしてしまうのは、承認欲求が強いからですか?
その形での説明は、ここで扱った出典には出てきません。Tamir と Mitchell の研究は、自分について話す機会に金銭的な価値がつくことを示しました。参加者は自分についての質問に答えるため、1試行あたり平均0.63セント、獲得しうる報酬の平均17%を手放しています。これは特定の人の性格ではなく、参加者全体に見られた傾向として報告されたものです。
一方的に話してしまった後、気まずくなるのはなぜですか?
理由を確定した研究は見当たりませんが、手がかりはあります。Sprecher らの実験では、1回目のやりとりの後により強い好意・親近感・楽しさを報告したのは話し手ではなく聞き手のほうでした(好意は M = 5.73 対 5.43、効果量 d = 0.32〜0.38)。ただし役割を交代した2回目にはこの差が消えています。面識のない大学生118人を対象とした一回きりの実験であり、長期の関係にそのまま当てはめられるものではありません。
まとめ
「自己開示すれば距離が縮まる」という助言は、間違ってはいない。ただ、それが指しているものは一つではなかった。好きだから話すのか、話したから好きになるのか、話されたから好きになるのか。研究はこの3つを分けたうえで、関連がいちばん大きいのは「好きだから話す」であり、実験で方向を分離できているのは残りの二つだ、と整理している。
そして、実験室で成り立った関連は、現実の場面ではあっさり符号を変えることがある。何を話したかより、どういう場で、誰と誰のあいだで、交代が起きたかどうか。効いていたのは、そのあたりの条件のほうだった。
帰り道の恥ずかしさは、たぶん減らなくていい。次に会ったとき、今度は相手の話を聞く番が来る。それだけの話なのだと思う。