共感性羞恥——他人の失敗を見ているだけで、自分のほうが恥ずかしくなってしまう感覚のことだ。テレビのドッキリで芸人が慌てている場面。会議で誰かが的外れな発言をして、部屋の空気がすっと冷える瞬間。あの、胃のあたりがきゅっと縮む感じ。

正直に言うと、私はバラエティ番組をほとんど最後まで見られない。笑われているのは自分ではないのに、なぜか自分が笑われているような居心地の悪さがある。チャンネルを変えるか、視線を手元のスマホに逃がすかのどちらかだ。

この感覚には研究上の名前がついていて、英語では vicarious embarrassment(代理的な恥ずかしさ)と呼ばれる。ドイツ語の Fremdscham(他人の恥)という語が使われることもある。ここでは、この感覚について何がわかっていて、どこから先はまだわかっていないのかを、実際の研究にあたりながら整理してみたい。

共感性羞恥は「変わった感じ方」ではない

まず押さえておきたいのは、これがごく一部の人だけに起きる特殊な反応ではない、という点だ。

2011年に PLoS ONE に掲載された Krach らの研究は、この現象を正面から扱った代表的なものだ。研究チームはまず、公共の場での失態やマナー違反を描いた52の場面を用意し、619人に「これを見たら自分はどのくらい恥ずかしいか」を7段階で評価してもらった。結果として、多くの参加者がこれらの場面に対して代理的な恥ずかしさを報告している。

ここで大事なのは、「珍しい人の珍しい反応」ではなく、程度の差はあれ広く見られる反応だという整理になることだ。強く感じる人と、そこまで感じない人がいる——つまり個人差の話であって、感じる人が異常なのでも、感じない人が冷たいのでもない。

「本人が気づいていない」ときのほうがつらい

同じ研究がおもしろいのは、場面を4種類に分けて比べているところだ。失態が偶発的か意図的か、そして本人がその状況に気づいているか気づいていないか。この2×2で場面を組んだ。

結果は、どの組み合わせでも代理的な恥ずかしさが生じた。相手がわざとやっていても、相手が自分の失態にまったく気づいていなくても、見ている側は恥ずかしくなる。

この「気づいていなくても起きる」という部分が、個人的にはいちばん腑に落ちた。服のタグが出たまま歩いている人を見かけたとき、当人はまったく平気なのに、こちらだけが落ち着かなくなる。あれは相手の感情をそのまま受け取っているのではなく、その状況が持つ社会的な意味を、こちらが勝手に引き受けているということになる。

さらに、参加者が持つ「共感しやすさ」の個人差(特性共感)との関係も調べられていて、共感性尺度の全体得点と主観的な恥ずかしさとの相関は r = .16〜.28 の範囲だった。もっとも強かったのは、偶発的で本人が気づいていない場面(r = .28)である。

ただし、この数字は率直に言って弱いから中くらいの関連にとどまる。「共感しやすい人ほど共感性羞恥が強い」という傾向は見えるが、共感性の高さだけでこの感覚の強さが決まるわけではない、というのが数字の正しい読み方だと思う。

脳では、痛みを見ているときと近いことが起きている

Krach らの研究には続きがある。32人を対象に、50枚のスケッチを見せながら脳の活動を記録した(fMRI)。

そこで反応していたのが、左の前部帯状回左の前部島皮質という領域だった。とくに前部島皮質は、他人が痛みを受けている場面を見たときにも活動することが繰り返し報告されている場所だ。そして参加者の特性共感が高いほど、これらの領域の活動も強い傾向があった(r = .28〜.50)。ただしこの相関は4つの場面条件すべてで有意だったわけではなく、偶発的かつ本人が自覚している条件では有意水準に達していない。

論文のタイトルが「Your Flaws Are My Pain(あなたの失態は、私の痛み)」なのは、この重なりを指している。

もっとも、ここは慎重に読みたいところだ。ある領域が両方の場面で活動するからといって、脳が両者を「同じもの」として処理していると断定はできない。脳画像研究では、ひとつの領域が多様な機能に関わることはむしろ普通で、活動の重なり=体験の同一性ではない。参加者32人という規模も、脳画像研究としては標準的だが決して大きくはない。

だから私は、この結果を「共感性羞恥は痛みだ」と読むのではなく、「他人の状況を自分の身に引き寄せて処理する仕組みが、恥ずかしさの場面でも動いている」くらいの温度で受け取っている。

共感は一枚岩ではない

そもそも「共感」という言葉自体が、研究の世界ではひとかたまりのものとして扱われていない。

2020年に Cortex に掲載された Kogler らのメタ分析は、共感を扱った43研究の57実験(1,193人)と、痛みを扱った68研究の72実験(1,019人)を統合したものだ。そこで示されたのは、相手の立場に立って考える働き(認知的共感)と、相手の感情を感じ取る働き(情動的共感)とで、活動する場所が分かれるということだった。まったく無関係な領域が使われるという話ではなく、脳の正中にある同じ領域帯の中で、前寄りと後ろ寄りに役割が分かれている、という形だ。

つまり「共感力が高い/低い」という一本の物差しで語ること自体に無理がある。この点は共感力が高いとは?研究が示す『共感』の多面性と疲れやすさや、用語としての整理は共感(エンパシー)にもまとめてある。

共感性羞恥がしんどい人は「感情のほうを強く拾ってしまう」タイプなのかもしれない——と考えたくはなるが、そこまでは研究が言っていない。ここは私の想像の域を出ない。

「知り合いだと余計にきつい」——脳と自己申告のズレ

体感としてはっきりあるのが、相手が近い人であるほど、共感性羞恥が強くなるということだ。テレビの向こうの他人より、同僚のプレゼンが滑ったときのほうが、こちらの背中が冷たくなる。

これを調べたのが、Müller-Pinzler らの2016年の研究(Social Cognitive and Affective Neuroscience)だ。友人条件の32人と他人条件の32人、合わせて64人を比べている。両群が見たのはまったく同じ失態のスケッチで、違いは添えられた教示だけ。片方には「この人物はあなたの友人だ」、もう片方には「見知らぬ人だ」と想定するよう伝えている。つまり操作されたのは刺激の中身ではなく、登場人物との心理的な距離のほうだ。実在の友人がスケッチに描かれていたわけではない、という点は押さえておきたい。

結果、友人だと想定した条件のほうが、前部帯状回と左の前部島皮質の活動が強かった。さらに、自分自身について考えるときに関わる楔前部の活動も高まり、この領域と前部帯状回とのつながりも強まっていた。

なお、この研究の「見知らぬ人」条件の32人は、先ほどの Krach らの2011年の研究でスキャンされた32人と同一のデータである。新しく測定されたのは友人条件の32人のほうで、年齢と性別を他人条件に合わせて集められている。64人を無作為に二分したわけではないし、この2本を完全に独立した2つの証拠として数えることもできない。

ただし——ここが重要なのだが——主観的な報告(どのくらい恥ずかしかったか)については、友人条件と他人条件で有意な差は出ていない。脳の反応には差があったのに、本人の申告には差がなかった。

この食い違いをどう読むかは難しい。自己申告では拾いきれない差が脳にはあった、とも読めるし、脳の差が体験の差として意味を持つほどではなかった、とも読める。少なくとも、「近い人だとつらいことが科学的に証明された」と言い切るのは、この結果からは行き過ぎだ。

私自身の感覚としては、近い人の失態がきついのは、その場に自分も「関係者」として含まれてしまうからではないかと思っている。楔前部の話とつながる気もするが、これは研究の結論ではなく、あくまで私の受け取り方だ。

つらくなるのは、共感が強すぎるからではない

共感性羞恥が強い人は、しばしば「気にしすぎ」「繊細すぎる」と言われる。あるいは自分でそう思い込む。

けれど、ここまで見てきた研究が示しているのは、もう少し違う構図だ。

  • 代理的な恥ずかしさは、相手が気づいていなくても生じる
  • 特性共感との関連はあるが、r = .16〜.28 程度で、それだけでは説明しきれない
  • 相手との近さが脳の反応を変えるが、主観的なつらさの差としては確認されていない

要するに、この感覚は「共感メーターが振り切れている」という単純な話ではなく、社会的な場面の意味を読み取る働きが動いた結果として起きている。場面の読み取りが細かい人ほど、拾う情報も多くなる——そう考えるほうが、私にはしっくりくる。

だから、共感性羞恥を「弱さ」として扱う必要はないと思っている。同時に、これをもって自分を「◯◯という気質の持ち主だ」と決めつける必要もない。感受性の個人差については感覚処理感受性に研究上の位置づけをまとめているが、そこでも繰り返しているとおり、ラベルは説明であって診断ではない。

見ていられないとき、どうしのぐか

ここからは研究の話ではなく、私が実際にやってみて割とマシだったことを挙げる。効果が検証された技法ではないので、合いそうなものだけ試してもらえればと思う。

視線を外すことに罪悪感を持たない。 バラエティ番組でチャンネルを変えるのも、会議で手元の資料に目を落とすのも、逃げではなく調整だ。見続けなければならない理由は、たいていの場面で存在しない。

「これは自分の失態ではない」と一度だけ言語化する。 頭の中で明示的に線を引くと、引き受けかけていたものが少し戻ってくる感じがある。何度も唱えると逆に意識してしまうので、一度で切り上げるのがコツだと思っている。

その場を離れる口実を、先に用意しておく。 飲み会や研修など「逃げ場のなさ」が読める場面では、席を立つ理由をあらかじめ決めておくだけで、体感の圧がずいぶん違う。

予告編やレビューで内容を確認してから見る。 映画やドラマなら、事前に「気まずい場面が中心かどうか」を調べておくと選びやすい。映像作品との付き合い方についてはHSPが映画で感情移入しすぎるときの原因と5つの対処法にも書いた。

もしこの感覚が強すぎて、人と会うことや外出そのものを避けるようになっている、あるいは仕事や生活に支障が出ている場合は、一人で抱え込まずに医療機関や相談窓口に相談してほしい。共感性羞恥そのものは病気ではないが、生活が回らなくなっているなら、それは別の相談に値する状態だと思う。

よくある質問(FAQ)

共感性羞恥は医学的な診断名ですか?

いいえ。共感性羞恥(vicarious embarrassment)は研究上の現象名であって、診断名ではありません。DSM や ICD といった診断基準に載っている用語でもありません。「自分は共感性羞恥だ」という言い方は、状態の説明としては通じますが、何かの診断を意味するものではないと考えてください。

共感性羞恥が強いのは、共感力が高いということですか?

部分的にしか当てはまりません。Krach らの研究では、共感しやすさの個人差(共感性尺度の全体得点)と主観的な恥ずかしさの相関は r = .16〜.28 でした。傾向としての関連はありますが、これは弱いから中くらいの強さで、共感力だけで決まるわけではないことを示しています。また、共感自体が認知的な側面と情動的な側面に分かれることもメタ分析で示されており、「共感力が高い/低い」という一本の尺度で語ること自体に無理があります。

相手が気にしていないのに、なぜこちらが恥ずかしくなるのですか?

Krach らの研究では、観察された人物が自分の失態に気づいていない場面でも代理的な恥ずかしさが生じ、むしろその条件で共感性との関連がもっとも強く出ていました(r = .28)。相手の感情をそのまま受け取っているというより、その場面が持つ社会的な意味をこちらが読み取っている、という構図が示唆されます。ただし、これは1本の研究の結果であり、確定した説明ではありません。

知り合いの失敗のほうがつらく感じるのは本当ですか?

体感としてそう報告する人は多く、脳の反応レベルでは裏づけがあります。Müller-Pinzler らの研究では、同じ失態のスケッチを「登場人物は自分の友人だ」と想定して見たときのほうが、前部帯状回・前部島皮質・楔前部の活動が強くなりました。ただし、主観的なつらさの申告については友人条件と他人条件で有意差が出ていません。「脳では差がある/自己申告では差が確認できなかった」というのが正確な現状です。

この感覚を弱めることはできますか?

共感性羞恥を直接減らす方法を検証した研究は、私が調べた範囲では見当たりませんでした。この記事で挙げた対処は、あくまで日常での工夫であって、効果が検証されたものではありません。日常生活や仕事に支障が出ているのであれば、感覚そのものを消そうとするより、医療機関や公的な相談窓口で状況を相談するほうが現実的だと思います。


見ていられない場面から目を逸らすたび、自分は打たれ弱いのだろうかと考えたことが何度もある。研究を読んだからといってその感覚が消えるわけではないけれど、少なくとも「これは壊れた反応ではない」ということは、数字の側からも言えそうだ。それだけでも、テレビの前で目を逸らすときの気分は、だいぶ軽くなった。