会議が終わったあと、誰も何も言っていないのに「たぶん今のは良くなかったな」と思うことがある。部長の相づちが半拍遅れた、隣の人が資料をめくる手を止めた、その程度の材料しかないのに、帰り道でずっとその15分を再生している。
「空気を読む」という言い方は、この作業に名前をつけたものだと思う。言われていない情報を、周囲から集めて、意味を作る。翻訳しづらい日本語としてよく挙げられるけれど、やっていること自体は心理学の実験で何度も測られてきた。ただ——測られた結果を追いかけると、途中で話の焦点が変わる。読めるか読めないかではなく、読めていると思っているかどうかのほうに。
水中のアニメを見せて、何を覚えているかを比べた実験
Masuda と Nisbett が2001年に Journal of Personality and Social Psychology に発表した研究は、「東アジアの人は出来事を文脈に照らして説明する」という従来の知見をふまえて、注意の向け方の面でも同じような差があるのかを調べたものだ。
研究1では、日本人とアメリカ人が水中の風景を描いたアニメーションを見て、内容を報告した。そのあと再認テストがある。前に見た物体と新しい物体を、もとの背景のまま、あるいは別の背景に置き換えて提示し、「これは見ましたか」と尋ねる。研究2は、野生動物の写真を使って再認課題を再現した。
結果はこうだった。日本人は、アメリカ人よりも文脈の情報や関係性についての発言が多かった。そして、前に見た物体をもとの背景に置かれたときのほうが正確に再認した。同じ操作は、アメリカ人にはあまり影響しなかった。
つまり、物と背景が日本人の参加者のなかでは束になって記憶されていて、背景を替えると物のほうの見え方まで変わってしまう。「空気ごと覚えている」と言うと文学的すぎるけれど、実験が拾ったのはそれに近い現象だ。
笑っている人の顔を、周りの人ごと見ていた
同じ流れの研究に、Masuda らが2008年に同じ雑誌へ発表したものがある。今度は自然の風景ではなく、人の表情が対象だ。
研究1では、参加者に漫画が提示される。中央に、幸福・悲しみ・怒り・中立のいずれかの表情をした人物がいて、その周囲に同じ感情を表している他の人たち、あるいは違う感情を表している他の人たちが描かれている。問われるのは、中央の人物の感情だ。
結果、周囲の人たちの感情は日本人の判断に影響したが、西洋人の判断には影響しなかった。
この違いが注意の向け方を反映していることを示したのが研究2で、視線計測(アイトラッキング)が使われている。日本人は西洋人よりも、周囲の人たちを多く見ていた。判断の違いは、そもそも視線の向かう先の違いを反映しているらしい——というのが著者らの読みだ。
論文の結論部分の言い方が印象に残る。西洋人は感情を個人の感じているものとして見るのに対し、日本人は感情を集団の感じていることと切り離せないものとして見ているようだ、と。

「察する自己」という説明と、その足元
こうした違いをまとめて説明しようとした古典が、Markus と Kitayama が1991年に Psychological Review に発表した論文だ。人は文化によって、自己・他者・相互依存についてまったく異なる構成(construal)を持っており、それが認知・感情・動機づけのあり方まで規定する、という主張だった。
論文は二つの型を対比させる。ひとつは独立的自己観で、他者から独立していることを保ち、自分の内的な属性を発見し表現していくことに価値が置かれる。もうひとつが相互協調的自己観で、個人どうしが根本的につながっているという前提に立ち、他者に注意を向けること、場に合わせること、調和的な相互依存が重視される。
念のために書いておくと、ここまでの二つの実験はどちらも1本ずつの研究であり、実験室での課題成績の群間比較にとどまる。日常の「空気を読む」場面にそのまま拡張できるものではないし、平均の差が一人ひとりの性質を意味するわけでもない。
そのうえで——「空気を読む」という語感にいちばん近いのは、二つ目の記述だと思う。ただし注意しておきたいことが二つある。ひとつ、これは1991年に提出された理論的な枠組みであって、個人を測って分類するための道具ではない。ふたつ、文化のあいだの平均的な傾向の話であり、日本で育った人が全員そうだ、という主張ではない。実際、上の二つの実験も「日本人のほうが多かった/正確だった」という群間の比較であって、一人ひとりの判定ではない。
もうひとつ、日常の説明としてよく持ち出される枠組みがある。エドワード・T・ホールの高文脈/低文脈だ。「日本は高文脈文化だから、言わなくても伝わることが多い」——聞いたことがある人は多いと思う。
この枠組みの使われ方を、Kittler・Rygl・Mackinnon が2011年に International Journal of Cross Cultural Management で系統的にレビューしている。彼らが問うたのは、ホールの概念に紐づけられてきた国別の分類が、厳密で裏づけのある知見の上に成り立っているのかという点だった。
結論は厳しい。レビューは、高文脈/低文脈の国別分類を用いてきた先行研究の多くが、十分とは言いがたい根拠に基づいていると述べている。そして、混在し、しばしば矛盾する知見が、従来の国別分類の不整合を露わにしており、それらの分類は欠陥がある、よくても非常に限定的なものだ、としている。
だから私は、Masuda らの実験結果と「日本は高文脈文化だ」という一般論を、ひとつながりの説明として書くことはできないと考えている。文脈への注意に平均差があることを示した実験は存在する。だが、それを国の性格として固定的にラベルづけしてきた枠組みのほうは、レビューが根拠不足だと指摘している。この二つは別の主張だ。
そして、読めているつもり問題
ここまでは「どこを見ているか」の話だった。では、よく見ている人は、実際に当てられるのか。
Eyal・Steffel・Epley が2018年に Journal of Personality and Social Psychology で報告したのは、25の実験の結果だ。テーマは、「相手の視点に立ってみる」という指示が対人的な洞察の精度を上げるのかどうか。課題は幅広く用意されている——表情や身体の姿勢から相手の感情を当てる、作り笑いと本物の笑顔を見分ける、嘘をついているか本当のことを言っているかを当てる、配偶者の活動の好みや消費態度を予測する。
事前調査では、参加者の大多数が「視点に立てば精度は上がるはずだ」と信じていた。 ところが実験の結果は、精度が上がったという一貫した証拠は見つからなかった、というものだった。それどころか、どちらかといえば視点取得は全体としてむしろ精度を下げる方向で、判断への自信のほうは時に高まった。自己中心的なバイアスは減ったが、その代わりに使われた情報が、系統的により正確だったわけではなかったからだ。
そして最後の実験が、この論文でいちばん大事なところだと思う。会話を通じて相手の視点を直接得た場合には、精度が上がった。 著者らの言い方を借りれば、対人的な精度を上げるには、既存の知識を使い回すのではなく新しい情報を手に入れることが必要らしい——視点を「取る(taking)」のではなく「得る(getting)」ことだ、と論文は結んでいる。
ここから先は、私の見方
正直に言うと、この論文を読んだとき、少し腹が立った。会議のあとで15分間なぞってきた再生作業は、精度に貢献していなかったかもしれない、ということだからだ。しかも自信のほうは上がる。厄介な組み合わせだと思う。
ただ、そのぶん救われた部分もある。25の実験が示したのは、相手の内心を想像して当てにいくやり方が、思っているほど精度に結びついていないということだった(自信のほうは時に上がる)。ここから先は私の推測だが、「空気が読めない」を能力の欠如として悩んできた人にとって、差がつくのは読解力よりも、当てにいくか聞きにいくかの選び方のほうなのだと思う。
もうひとつ。文脈をよく拾うこと自体は、実験のなかでは能力でも欠陥でもなく、ただの注意の配り方として現れていた。周囲を多く見るぶん、拾う情報も多くなる。そのコストのほうが生活実感としては効いてくる——というのは研究の言っていることではなく私の実感だが、そこは人といると疲れるのはなぜかやHSPが気を遣いすぎて疲れる職場での対処法で扱ってきた話につながる。他人の感情に引っぱられる度合いについては共感性、環境の細部を拾いやすい傾向については感覚処理感受性という研究上の呼び名があり、共感性の研究がどこまで言えているのかは共感性が高いとはどういうことかにまとめてあります。
なお、場の反応を過剰に気にしてしまい、人前での場面を避けるようになった、生活や仕事に支障が出ている——そうした状態が続く場合は、性格の問題として抱え込まず、医療機関や相談窓口に相談してください。 厚生労働省のこころの耳から窓口を探せます。
よくある質問(FAQ)
「空気を読む」は日本人だけの能力ですか?
能力の有無というより、注意の向け方の平均差として測られてきました。Masuda & Nisbett(2001、JPSP)の実験では、日本人はアメリカ人より文脈や関係性についての発言が多く、前に見た物体をもとの背景に置かれたときのほうが正確に再認しました。同じ操作はアメリカ人にはあまり影響していません。Masuda ら(2008、JPSP)では、周囲の人の感情が日本人の判断に影響し、視線計測でも日本人は周囲の人をより多く見ていました。ただしこれらは群間の平均比較であり、個人を分類するものではありません。
「日本は高文脈文化だから」という説明は正しいですか?
その枠組みの使われ方を検証した系統的レビューが、慎重な見方を示しています。Kittler・Rygl・Mackinnon(2011、International Journal of Cross Cultural Management)は、ホールの高文脈/低文脈の国別分類を用いた先行研究の多くが十分とは言いがたい根拠に基づいており、混在し矛盾する知見が従来の分類の不整合を示していて、それらは欠陥があるか、よくても非常に限定的だと述べています。文脈への注意に差があるという実験結果と、国を高文脈と分類する枠組みの妥当性は、別の問題として扱う必要があります。
相手の気持ちを想像すれば、正しく察せるようになりますか?
Eyal・Steffel・Epley(2018、JPSP)は25の実験で、「相手の視点に立つ」という指示が対人的な精度を上げるかを検証しました。事前調査では大多数が上がると信じていましたが、精度が上がったという一貫した証拠は得られず、むしろ全体としては精度が下がり、判断への自信は時に高まりました。一方、最後の実験では、会話を通じて相手の視点を直接得た場合に精度が上がっています。想像より、確認のほうが効いた、という結果です。
空気が読めないのは、直したほうがいいのでしょうか?
この記事で扱った研究は、読めることを望ましい能力として位置づけてはいません。Masuda らの研究が示したのは注意の配り方の違いであり、Eyal らの研究が示したのは、「相手の視点に立つ」という指示では精度が上がらず、判断への自信のほうは時に高まったということでした。なお後者は、読み手自身が自分の読解力をどう評価しているかを測った研究ではありません。読める・読めないを個人の優劣として測る根拠は、少なくともこれらの出典からは出てきません。困りごとが「察せないこと」ではなく「確認しにくいこと」にあるなら、そちらのほうが手をつけやすい問題かもしれません。
相互協調的自己観とは何ですか?
Markus & Kitayama(1991、Psychological Review)が提出した枠組みで、個人どうしが根本的につながっているという前提に立ち、他者に注意を向けること・場に合わせること・調和的な相互依存を重視する自己のあり方を指します。対になるのが、他者からの独立を保ち自分の内的属性を表現することに価値を置く独立的自己観です。文化間の平均的な傾向を説明するための理論的枠組みであり、個人を測定・分類するための尺度ではありません。
書き終えて残ったのは、「読む」という動詞が二つの作業を抱え込んでいる、という感触だった。
周囲に注意を配ること。それは実験のなかで、視線の動きとして実際に観察されている。もうひとつは、集めた材料から相手の内心を当てにいくこと。こちらは、25の実験が精度を保証してくれなかった。前者は得意でも、後者は外している——という状態はふつうにありうる、というより、たぶん私はずっとそれをやってきた。
帰り道の15分は、今後もなくならないと思う。ただ、その15分を一回分だけ短くして、翌朝に「あれ、どうでした?」と聞きにいくほうが、研究の言っていることには沿っている。聞きにいくのが怖いという問題は残るけれど、それは読む能力の話ではなく、別の問題として扱っていい。