配信のコメント欄は、ほとんど流れていくだけで読まない。自分では一度も書き込んだことがない。それでも週に何度か開いて、後ろのほうでただ見ている。推しがいる、と人に言うのはなんだか気恥ずかしいけれど、あの時間が生活の一部になっているのは確かだ。

この「見ているだけ」の関係に名前がついたのは、意外なほど古い。1956年、テレビがまだ新しいメディアだった頃の論文だ。そこで書かれていた特徴のひとつが、いまの推し活のいちばん大事な部分を言い当てているように、私には思える。

「パラソーシャル」は、1956年のテレビ論から来ている

Donald Horton と R. Richard Wohl が学術誌 Psychiatry に発表した論文は、ラジオ・テレビ・映画という新しいメディアが演者との対面関係の錯覚(illusion of face-to-face relationship)を与えることから話を始める。もっとも遠く、もっとも高名な人物が、まるで仲間の輪の中にいるかのように出会われる。この見かけ上の対面関係を、彼らはパラソーシャルな関係と呼んだ。演者が観客の反応に合わせて演技を調整するほど、観客のほうも期待された反応を返すようになる——この会話のやりとりの模造をパラソーシャルな相互作用と名づけている。

ここまでは、いまでもよく紹介される部分だ。私が強く反応したのは、その次だった。

パラソーシャルな関係は、観る側にとって義務・努力・責任の感覚をほとんど、あるいはまったく伴わずに営まれうる。彼はいつでも降りることができる。

そして彼らは、決定的な違いは効果的な相互性の欠如にあるとし、この相互作用は特徴的に一方的で、非弁証法的で、演者によって統制されており、相互の発展にはなじまないと書いている。満足できなければ、降りるという選択肢しかない。ただし彼ら自身は、これらを対人的な関係との種類の差ではなく程度の差だとも断っている。

普通に読めば、これは欠陥の列挙だ。相互性がない。発展しない。統制できない。ところが、対人的なやりとりに消耗しやすい人間の側から読むと、まったく違う顔をする。義務がない。努力を返さなくていい。いつでも降りられる。推し活が続く理由の芯は、たぶんここにある。

「寂しいから推すのか」——120研究のメタ分析が出した答え

推し活の話でいちばん多い誤解は、おそらく「現実の人間関係が乏しい人の代わり」という見立てだ。これは検証されている。

2020年に Journal of Communication に載った Tukachinsky、Walter、Saucier のメタ分析は、40年分・120件(k = 120)の研究を統合してパラソーシャル関係(PSR)の先行要因と効果を検討した。結果はこうだ。

現代の理論化がPSRを社会的関係の代替ではなく拡張として捉えているのと一致して、このメタ分析は社会的な欠乏とPSRのあいだに有意な関連を見出さなかった

一方でPSRは、対人的な結びつきを促す要因(類似性=homophily)、他の関与の形(同一化、物語への没入)、説得的な結果と強く相関していた。さらに、PSR(関係)とPSI(その場のやりとり)は中程度の相関にとどまり、理論的に区別される構成概念であることが確認された。

つまり、推す人は「人と関われないから推している」という見立てには、根拠が乏しい。むしろ人と結びつくときに働く要素が、そのまま推しにも働いている。代わりではなく、延長。関連が見つからなかったという結果であって、「絶対に無関係だ」と証明されたわけではない点は、押さえておきたい。

ここは正直、読んでいて少しほっとした。推し活を語ると必ず出てくる「現実が充実していれば必要ないのでは」という視線に、根拠が薄いことがはっきりするからだ。ただし相関の統合であって、「推し活をすれば人間関係が良くなる」という因果を示したものではない。方向の話はまだ開いている。

それでも「居場所の感じ」は生まれる——社会的代理仮説

代替ではないとして、では推しは何をしているのか。ひとつの答えが、2009年に Journal of Experimental Social Psychology で報告された社会的代理仮説(Social Surrogacy Hypothesis)だ。Derrick、Gabriel、Hugenberg による4つの研究からなる。

  • 研究1: 人は孤独を感じたときにお気に入りの番組に向かうと報告し、その番組を観ているときは孤独感が下がると報告している(自己報告にもとづく記述的な調査)
  • 研究2: 帰属欲求を実験的に活性化させると、お気に入りの番組の記述に長く浸る(お気に入りでない番組では起きない)
  • 研究3: お気に入りの番組について考えることが、親密な関係への脅威によって通常引き起こされる自尊心と気分の低下、拒絶感の上昇を緩衝した
  • 研究4: お気に入りの番組について考えることで、慢性的に活性化している拒絶関連語の活性が下がった

著者たちの結論の書き方が、私は好きだ。彼らはこれを社会的代理仮説に対する示唆的で予備的な証拠(provocative preliminary evidence)と呼んでいる。価値ある番組について考えることは、帰属の経験をもたらすように見える——「見える」で止めている。

だからここは「証明された」とは書けない。単一の論文の中の4研究で、対象はテレビ番組であって推し活そのものではない。それでも、大切なものについて考えるだけで、拒絶されたあとの落ち込みが和らぐという結果が出ていること自体は、覚えておく価値があると思う。ライブに行けなくても、グッズを眺めているだけで少し持ち直す感じ。あれには、たぶん名前がついている。

一人で過ごす時間そのものの効用についてはソロ活を研究で読むで別に整理した。内向性・外向性の用語としての線引きも、あわせて読むと位置づけやすいかもしれない。

効いているのは「推し」か、「同じ推しの人たち」か

ここからが、この記事でいちばん立ち止まった部分だ。

ファン研究には、fanship(ファンシップ)fandom(ファンダム)という区別がある。fanship は対象そのものへの心理的な結びつき——推しへの同一化で、個人的アイデンティティにあたる。fandom は同じ対象を好む他のファンたちへの心理的な結びつきで、社会的アイデンティティにあたる。高く相関するが、経験的には別物だと示されてきた。

Reysen と Plante が North American Journal of Psychology に報告した研究は、この二つを同じモデルに入れて、どちらがウェルビーイングを予測するかを見ている。大学生459名(81.5%が女性、平均21.32歳)が、自分の好きな対象の1位から4位までについて fanship と fandom を答え、2種類のウェルビーイング尺度に回答した。

結果は、1位の対象に対する fandom だけが、両方のウェルビーイング指標を有意に予測した(Ryffの心理的ウェルビーイング: β = .22、p = .004/多面的ウェルビーイング: β = .23、p = .004)。この回帰モデルの中では fanship はどちらも有意にならず、4位の対象については fandom も有意にならなかった。著者らは、fandom が対面でのファン同士のやりとりと結びついていることが理由だろうと考察している。

ここで細かいが大事な但し書きを二つ。ひとつは、1位と4位の fandom の係数そのものに統計的な差は確認されていない(Ryff: Wald = 0.91、p = .34/多面的: Wald = 1.35、p = .25)と著者らが明記していること。もうひとつは、単純な相関で見れば1位の fanship も両方のウェルビーイング指標と有意に関連している(r = .21 と .13)ということだ。fanship と fandom は r = .79 と強く相関しているので、同じモデルに入れると効果が fandom 側に吸われる。「fanship は無関係だった」とは読めない。

……これは、内向的な側にいる読者にとって、あまり優しい結果ではない。効いているのは推しへの愛の強さではなく、同じ推しを持つ人たちの輪に入っている度合いのほうだ、と読めてしまう。

ただ、数字の大きさは見ておいたほうがいい。モデルの説明力は R² = .11 と .05 で、ウェルビーイングのばらつきのごく一部しか説明していない。横断的な研究なので因果の向きも決まらない(元気な人ほどファン仲間と関わりやすい、という向きも同じくらい成り立つ)。対象は米国の一大学の学部生で、8割が女性だ。

だから私は、この結果を「オフ会に行かないと意味がない」とは読まない。読むとすれば、推しがいることと、推しを介して誰かとつながることは、別々に数えられているという一点だ。前者だけでも生活は成り立つ。後者を少しだけ足す余地があるなら、それは足し算になりうる。SNSで感想を投稿するのが消耗するなら、内向型のためのSNS発信術のほうが現実的な足し方かもしれない。

日本のデータが映した、「人生が変わった」の裏側

日本の推し活そのものを扱った研究は、まだ多くない。数少ないひとつが、菅野智子と山村豊が日本応用心理学会第89回大会(2023年8月)で行ったポスター発表だ。

関東圏の大学生140名に調査し、「推し活をしている」と答えた75名のうち欠損のない73名を分析している。推し活の行動面と、空想傾向・楽観性・主観的幸福感(人生満足度尺度)・ポジティブ志向との関連を相関で見たものだ。

結果は、まず素直な方向に出ている。一日に推し活に費やす時間が長い人(r = 0.45、p < .01)、一日に推しについて考える時間が長い人(r = 0.48、p < .01)、一か月に使う金額が高い人(r = 0.44、p < .01)ほど、「人生が変わった」と感じていた。著者らは、時間と費用をかけたヘビーな推し活は主観的に「人生を変える」ことが示された、とまとめている。

面白いのはその先だ。一か月に推し活に使う金額と空想得点には正の相関(r = 0.38、p < .01)があった一方で、同じ金額と「理想の人生」得点には負の相関(r = −0.25、p < .05)が見られた。さらに「オープンな推し活への抵抗」と「理想の人生」にも負の相関(r = −0.25、p < .05)があった。

著者らの考察を引くと、出費を惜しまない人ほど「人生が変わった」と幸福感にあふれる反面、経済的負担も大きく、社会的に望ましい人生ではない(ゆえにオープンにはできない)という葛藤も垣間見えた、という読みになっている。

推し活は幸福か、という問いに対して、このデータは「両方が同時に起きている」と答えている。人生が変わった実感と、理想からは遠いという後ろめたさ。私はこの並存のほうに、ずっとリアリティを感じた。

留保も明記しておく。査読を経た論文ではなく学会のポスター発表で、分析対象は73名、横断的な相関にすぎない。著者ら自身、推し活をしていない人との比較が今後必要だと書いている。この数字を一般化するには材料が足りない。

私が推し活に払っているもの、払わずに済んでいるもの

ここから先は研究の要約ではなく、私の受け取り方だ。

Horton と Wohl の「義務・努力・責任をほとんど伴わない」という一文に、私はこの記事を書きながら何度も戻った。人と会うのが嫌いなわけではない。ただ、会ったあとには必ず、返さなければいけないものが残る。返信、気遣い、次の予定。推しにはそれがない。降りたければ、明日から見なければいいだけだ。

その気楽さは、たしかに「相互性の欠如」という欠陥の裏返しでしかない。それでも、返さなくていい関係が生活にひとつあることの効き目は、私の実感ではかなり大きい。

一方で、Reysen らの結果は無視できない。効き目が数字として出ていたのは、推しへの熱量ではなく人の側だった。だから最近は、感想を書き込まないまま同じ配信を見ている誰かがいる、という事実だけを少し意識するようにしている。輪に入る、まではしない。輪があることを知っている、くらいで止めておく。それでも以前より、あの時間の手ざわりが変わった気がしている。

推しがいてよかった、と言い切れるだけの証拠は、まだ研究の側にはない。ないまま、今夜も配信を開くと思う。

よくある質問(FAQ)

推し活は寂しさの埋め合わせなのですか

40年分・120件の研究を統合した2020年のメタ分析は、社会的な欠乏とパラソーシャル関係のあいだに有意な関連を見出しませんでした。著者らはこれを、パラソーシャル関係を社会的関係の代替ではなく拡張として捉える現代の理論化と一致する結果だとしています。一方でパラソーシャル関係は、類似性や同一化、物語への没入といった、対人的な結びつきを促す要因と強く相関していました。「人と関われないから推している」という見立てには、いまのところ根拠が乏しいと言えます。

推し活に効果があると言い切れますか

言い切れる段階ではありません。2009年の社会的代理仮説の研究(4研究)は、お気に入りの番組について考えることが、親密な関係への脅威で生じる自尊心と気分の低下、拒絶感の上昇を緩衝したと報告していますが、著者ら自身がこれを「示唆的で予備的な証拠」と呼んでいます。対象もテレビ番組であって推し活そのものではありません。ウェルビーイングとの関連を見た研究も横断的で、因果の向きは決まっていません。

推しへの愛情の強さは幸福度と関係しますか

大学生459名を対象にした研究では、対象そのものへの同一化(fanship)と、同じ対象を好む他のファンへの同一化(fandom)を同じモデルに入れたとき、有意にウェルビーイングを予測したのは1位の対象に対する fandom のみでした(β = .22 と .23、いずれも p = .004)。ただしこれは同時に投入した回帰モデルでの話で、単純な相関で見れば1位の fanship も両方の指標と有意に関連しています(r = .21 と .13)。fanship と fandom は r = .79 と強く相関するため、同じモデルでは効果が fandom 側に集まります。モデルの説明力も R² = .11 と .05 と小さく、横断研究のため因果は決まりません。対象も米国の一大学の学部生(81.5%が女性)で、推しへの愛情が無意味だと示した研究ではありません。

ファンの集まりに参加しないと意味がないのですか

そうは読めません。上記の研究が示しているのは、推しがいることと、推しを介して人とつながることが別々に数えられているという点で、後者だけが価値を持つという話ではありません。説明力も小さく、元気な人ほどファン仲間と関わりやすいという逆向きの解釈も同じくらい成り立ちます。対面の集まりが負担なら、参加しない選択がウェルビーイングを損なうという証拠は、この研究からは出てきません。

推し活にお金をかけるほど幸せになりますか

日本の大学生73名を分析した2023年のポスター発表では、一か月に推し活に使う金額が高い人ほど「人生が変わった」と感じる傾向がありました(r = 0.44、p < .01)。ただし同じ金額は「理想の人生」得点とは負の相関を示しています(r = −0.25、p < .05)。著者らは、幸福感にあふれる反面で経済的負担も大きく、社会的に望ましい人生ではないという葛藤が垣間見えたと考察しています。査読論文ではなく73名の横断的な相関なので一般化はできませんが、支出と満足が単純な右肩上がりではないことを示唆する結果です。