昇進したくない、と口に出すのは、なぜか少し後ろめたい。給料は上がるし、まわりは「おめでとう」と言う。それを断りたいと思っている自分のほうがおかしいのではないか——という順番で、自分を疑い始める。
この記事では、その気持ちの是非を判定しない。代わりに、昇進というものについて研究と公的統計が実際に何を測ってきたかを並べる。判断材料が増えたほうが、少なくとも自分を疑う時間は短くなると思う。
昇進は、公的統計のなかでストレス要因として数えられている
まず事実確認から。厚生労働省の**令和6年 労働安全衛生調査(実態調査)の個人調査では、仕事や職業生活で強い不安・悩み・ストレスがあると答えた労働者は68.3%**だった。
その内訳(強いストレスがあると答えた人を100とした、主なもの3つ以内)には、「役割・地位の変化等(昇進・昇格、配置転換等)」という項目があり、19.8%が挙げている。仕事の量(43.2%)や仕事の失敗・責任の発生等(36.2%)ほどではないが、強いストレスを抱えている人の5人に1人だ(全労働者に対する割合に直すと、68.3%の19.8%で約13.5%になる)。
年齢別に見ると、この項目を挙げた割合は40〜49歳で27.7%と最も高い。役職が視野に入る年代でピークを迎えている、という読み方はできる(ただしこれは横断データで、因果を示すものではない)。なお同調査は令和6年に設問形式が変更されており、前年との単純比較には注意が必要だと厚労省が注記している。
言いたいのはひとつだけ。昇進を負荷として感じることは、統計が最初から想定している事象であって、あなたの個人的な弱さとして発明されたものではない。
昇進した人の精神的健康は、その後どうなったか
ここから研究に入る。Boyce と Oswald が Health Economics に発表した論文(2012年)は、シンプルな問いを立てている——地位が上がると人は健康になるのか。
使ったのはイギリスの世帯パネル調査(British Household Panel Survey、1991〜2007年)で、1,000件を超える昇進を含む長期データだ。まず、地位が高い人ほど健康だという横断的な相関は、この研究でも再現された。ここまでは通説どおりである。
しかし縦断的に追うと、話が変わる。データが示したのは、もともと健康な人が後に昇進していくという順番だった。昇進が健康を押し上げるのではなく、健康な人が昇進していく。そして著者らの要約によれば、昇進後に健康が改善する証拠はほとんど見つからず、精神的健康(GHQという標準的な尺度)はむしろ有意に悪化していた。
ここは数字の読み方に注意が要るので、丁寧に書く。論文が注目しているのは、非監督職から管理職への「大きな昇進」(対象386件)だ。この群のGHQ(0〜36点の尺度で、高いほど精神的に不調)は、昇進した年から3年後にかけて、非昇進の対照群と比べて0.83ポイント分だけ悪い方向に動いた(統制変数を入れると0.75)。
ただし、これは変化量の差であって、水準の差ではない。論文は「T+3の時点では、この人たちの精神的健康は昇進しなかった人たちと同じ水準にある」とはっきり書いている。しかも昇進の前年を起点にすると、3年後との差は0.20で統計的に有意ではない。何が起きていたかというと、昇進の直前に精神的健康が一時的に良くなり、その後もとの水準へ戻っていった——0.83という数字は、その山が消える過程を大きく含んでいる。
さらに、公的部門・製造業・同一住所・5年後といったサブサンプルで確かめ直すと、精神的健康については昇進前年を起点にした推定値がいずれも有意になっていない。頑健とは言いがたい結果だ。
だから、この研究から言えるのは「昇進すると病む」ではない。言えるのは、昇進が健康を押し上げるという素朴な仮説が、このデータでは支持されなかったということ。地味な結論だが、私にはこれで十分だった。「昇進を渋る自分は非合理なのでは」という問いは、昇進すれば健康が増えるという前提の上に立っている。その前提のほうが、少なくともこのデータでは裏づけられていない。

「いちばん成績のいい人」を昇進させると、何が起きるか
もうひとつ、組織の側から見た研究がある。Benson・Li・Shue による “Promotions and the Peter Principle” だ。
ここで先に断っておくことがある。この記事が参照しているのは2018年のNBERワーキングペーパー版——つまり査読を経る前の版で、PDFにもその旨が明記されている。同じ論文はのちに Quarterly Journal of Economics(2019年)に掲載されており、公刊版の要旨では対象企業数が131社と記載されている。以下の数値はワーキングペーパー版のものだと理解して読んでほしい(公刊版の本文は有料で、数値が改訂されたかまでは確認できなかった)。
その版での対象は米国の214社・53,035人の営業職で、うち1,531人が観察期間(2005〜2011年)中に管理職へ昇進している。営業は成績が金額で測れるため、「現在の職務の成績」と「管理職としての成績」を分けて追える。管理職としての成績は、部下の売上をどれだけ押し上げたか(manager value added)で測っている。
結果は二段構えだった。まず、売上が2倍になると昇進確率が基準比で14.3%上がる。成績のいい人が昇進する、という当たり前の事実が数字で確認される。
ところが昇進した人のなかで見ると、昇進前の売上が2倍だった人ほど、部下ひとりあたりの売上が7.5%低下していた。現場の成績と管理職としての成績は、逆向きに効いていたということだ。著者らはこれを「ピーターの法則」——有能な担当者を昇進させ続けると無能な管理職ができあがる、という古い皮肉——と整合的な結果だとしている。
さらに興味深いのは、管理職としての成績を正の方向に予測していたのは「協働経験」(ひとつの取引で成果を分け合った同僚の人数)だったのに、それは昇進の判断に一貫して反映されていなかった点だ。
著者らは、企業が非合理なのか、それとも昇進を人参としてぶら下げるインセンティブ効果がミスマッチのコストを上回るのか、両方の可能性を残している。「良いプレイヤーが良いマネージャーとは限らない」には、大規模データによる裏づけがある——査読前の版であることを差し引いても、ここまでは言ってよさそうだ。
だから、現場が好きで管理をやりたくない人が昇進を渋るのは、組織にとって必ずしも損失ではない。むしろ、この研究が指摘しているミスマッチを自分で回避している側面がある。
「リーダーになりたい」は、測れる個人差として扱われている
では、昇進意欲そのものはどう扱われてきたのか。Chan と Drasgow が2001年に Journal of Applied Psychology で提示した「リードする動機(Motivation to Lead, MTL)」という構成概念がある。
MTLは単一の意欲ではなく、3つの因子に分けて測られる。ざっくり言えば、リーダーであること自体を自分らしいと感じるかどうか(affective-identity)、損得を勘定せずに引き受けるかどうか(noncalculative)、そして役割として引き受けるべきだと考えるかどうか(social-normative)だ。同論文では、この尺度が一般的な認知能力・価値観・性格・態度に上乗せする形で、リーダーシップの潜在力を予測することが報告されている。
ここで押さえておきたいのは、「昇進したくない」が一枚岩ではないということだ。リーダー像に自分を重ねられないのか、割に合わないと計算しているのか、引き受ける義務を感じないのか——中身は別々の連続量として測られている(どれか一つに分類されるタイプ論ではない)。自分の場合どの部分が働いていないのかを言語化しておくと、断り方も交渉の仕方も変わってくる。
ちなみに、静かなタイプがリーダーに向かないという通説には別の角度からの反論もあり、内向型リーダーの「静かな強み」でその研究をたどっている。性格特性の枠組みそのものについてはビッグファイブ、外向性と内向性の扱いについては内向性と外向性にまとめてある。
それでも、上がらない選択にはコストがある
ここまで昇進の影の部分を並べてきたので、公平のためにお金の話も出しておく。
厚生労働省の令和6年賃金構造基本統計調査によれば、雇用期間の定めのない一般労働者の役職別の賃金(6月分の所定内給与額、男女計)は、非役職者302.8千円に対し、係長級385.9千円、課長級512.0千円、部長級627.2千円だった。非役職者を100とすると、係長級127.4、課長級169.1、部長級207.1になる。
課長級で約1.7倍、部長級で約2.1倍。これが「上がらない」という選択の値札だ。しかもこの差は毎月積み上がり、賞与や退職金、年金にも効いてくる。平均年齢は部長級53.0歳・課長級49.3歳・非役職者41.5歳と差があるので、純粋な役職効果だけを取り出した数字ではない点は割り引く必要があるが、それでも小さな差ではない。
ここから先は私の見方だ。昇進を断るなら、この値札を見たうえで断るほうがいいと思っている。「なんとなく怖いから」で流すと、5年後に後悔の理由が「金額」なのか「役割」なのかも分からなくなる。逆に、金額を見たうえで「それでも管理はやらない」と決めたなら、それはもう立派な意思決定だ。断ることの後ろめたさは、この一手間でだいぶ減る。
そして、いまの職場で「管理職にならない」が事実上の詰みを意味するなら、それは個人の適性の問題ではなくキャリアの設計の問題になる。専門職として評価される制度がある会社もあれば、ない会社もある。そこを確かめる作業は、内向型の転職サイト・エージェント完全ガイドで整理した情報収集の手順がそのまま使える。
なお、昇進の話が「引き受けたら潰れそう」という予感と結びついているなら、それは別に検討する価値がある論点だ。消耗の構造については燃え尽き症候群とは何かでWHOの定義から整理している。眠れない・気分が晴れない状態が続いているなら、産業医や医療機関への相談を先に置いてほしい。厚生労働省のこころの耳から相談先を探せる。
よくある質問(FAQ)
昇進を断ると評価は下がりますか
これは会社の制度と運用によるもので、研究や統計から一般的な答えは出せません。確認できるのは、公的統計上「役割・地位の変化等(昇進・昇格、配置転換等)」が、強いストレスがあると答えた労働者の19.8%(全労働者では約13%)に挙げられていること、そして役職に就かない場合の賃金差が非役職者を100として係長級127.4・課長級169.1・部長級207.1であることです。評価への影響は、社内の等級制度や専門職コースの有無を直接確認するのが確実です。
昇進すれば精神的な健康は良くなりますか
Boyce と Oswald の研究(イギリスの世帯パネル、1,000件を超える昇進)では、そうはなりませんでした。昇進後に主観的な健康感が改善する証拠は乏しく、精神的健康(GHQ)はむしろ悪化していました。ただし非監督職から管理職への大きな昇進で報告された0.83ポイントは、昇進した年を起点にした変化量の差であり、3年後の水準は非昇進者と同じだと論文自身が書いています。昇進前年を起点にすると差は有意ではありません。単一国の単一研究であり、「昇進すると不健康になる」と読むことはできません。
現場で成果が出ている人が管理職に向かないのはなぜですか
Benson らの研究(NBERワーキングペーパー版で214社・53,035人の営業職。査読済みのQuarterly Journal of Economics版の要旨では131社と記載されています)では、昇進前の売上が2倍だった管理職ほど、部下ひとりあたりの売上が7.5%低かったと報告されています。一方で管理職としての成績を正の方向に予測していたのは協働経験でした。求められるスキルが職務の階層で異なるため、と説明されていますが、これも米国の営業職という特定の設定での結果です。
昇進意欲がないのは向上心がないということですか
研究はそういう枠組みを取っていません。Chan と Drasgow は「リードする動機」を測定可能な個人差として定式化し、リーダーであることを自分らしいと感じる度合い・損得を勘定しない度合い・役割として引き受けるべきと考える度合いの3因子に分けています。意欲の有無ではなく、どの部分が働いていないかを分けて見る枠組みです。
管理職にならずにキャリアを続けられますか
制度次第です。専門職として評価される等級制度を持つ会社もあれば、管理職が唯一の上位経路になっている会社もあります。賃金構造基本統計調査が示す役職間の差は小さくないので、いまの会社に非管理職の処遇経路があるかを確認したうえで、なければ転職も含めて検討するのが現実的だと思います。
「向いていない気がする」という感覚そのものを研究から分解した記事として「仕事が向いてない気がする」を研究で分解する、キャリアの軸を型で語ることの限界についてはキャリアアンカーの8分類は、どこまで裏付けがあるのかがあります。転職そのものへの不安を扱ったものは転職の不安は何でできているかをどうぞ。