求人サイトのタブを開いたまま、その日は結局なにもしなかった。転職への不安というのは、たいていこういう地味な形で現れる。悲愴な決断の場面ではなく、応募ボタンの手前で手が止まって、明日でいいか、と思って、気づくと半年経っている。

この止まり方を「意志が弱いから」で片づけたくない。というのも、意思決定の研究には、そのままでいることを選ばせる方向に、系統的な偏りがかかるという古典的な所見があるからだ。ここでは、その偏りを扱った研究をたどりながら、転職の不安が何でできているのかを分解してみる。

選択肢が増えるほど、「そのまま」が有利になる

「そのまま」という選択肢は、はじめから重い

出発点は、William Samuelson と Richard Zeckhauser が1988年に Journal of Risk and Uncertainty に発表した論文だ。タイトルは「Status Quo Bias in Decision Making(意思決定における現状維持バイアス)」。

この論文の問題意識は明快だ。経済学の教科書に出てくる選択問題と違って、現実の決定にはほとんどいつも「何もしない/これまでの決定を維持する」という選択肢が含まれている。そして選択肢のひとつが「現状」というラベルを背負っているかどうかが、選ばれやすさを左右するのではないか——という問いを立てている。

実験で確かめられたこと

検証には質問紙が使われた。同じ選択肢の組み合わせを、二通りの枠組みで提示する。ひとつは中立的な枠組み——どの選択肢にもラベルがつかず、全部が横並びで示される。もうひとつは現状維持の枠組み——選択肢のうちのひとつが現状の位置に置かれ、他はそこからの変更として示される。

回答したのは、ボストン大学経営大学院とハーバード大学ケネディスクールの学生486名。授業中に20〜25分で答える、金銭報酬のない質問紙だった。この設計は覚えておいてほしい(後で出てくる実データの話と性質が違う)。

論文が報告する主な所見は、意思決定者が有意な現状維持バイアスを示した、というものだった。加えて、偏りの大きさが条件によって動くことも報告されている。選択肢に対する個人の選好が強いほど、偏りは弱くなる。そして選択肢の数が多いほど、現状維持への相対的な偏りは強くなる

ただし後者について、実験で操作された選択肢の数は2択から4択の範囲だ。求人サイトのように選択肢が数千件ある状況で同じ性質が働くかどうかは、この研究が直接確かめたことではない。その断りを置いたうえで言うと、「たくさん見比べてから決めよう」という真っ当な態度が現状に票を入れる方向に働きうる、という筋道は考えておく価値があると思う。

なお論文は、実験結果の大きさを伝えるための比喩として選挙の例を挙げている。中立的な状況なら票を二分するはずの2候補で、片方が現職なら59%対41%の勝利になる——という外挿だ。ただし著者たちは、この例はあくまで比喩であり、自分たちの実験結果が実際の選挙結果を説明すると主張するものではない、とわざわざ断っている。

実験室の外でも同じことが起きていた

質問紙だけなら、「そういう答え方をしただけ」と言うこともできる。この論文が読み継がれている理由の少なくとも一つは、実際の選択データを使った検証を並べたところにあるのだろうと思う。

ひとつはハーバード大学の職員による健康保険プランの選択。Neipp と Zeckhauser(1985)の先行研究では、毎年プランを変更する職員は3%にとどまっていた(同じ研究はポラロイド社でも同じ割合を報告している)。

ただ、変更が少ないだけでは「安定した選好」の説明もつく。そこで著者たちは、新規加入者を対照群として使う手を取った。新規加入者はまだ現状を持っていないので、中立的な枠組みで選んでいるはずだからだ。

比較の結果ははっきり分かれた。従来からある BCBS プランを選ぶ割合は、新規加入者では年齢層ごとに6.4%、12.4%、22.7%、24.7%。同じ年齢層の既存加入者では27.4%、33.0%、43.1%、50.0%。どの年齢層でも既存加入者のほうが2〜4倍高い

もうひとつは全米の教職員が使う年金基金(TIAA/CREF)で、掛金を債券中心のファンドと株式ファンドにどう振り分けるかという毎年の選択だ。1981年から1986年までの配分比率はほとんど動いていない。TIAA自身の調査(1986)では、配分を一度でも変更したことがある人は28%(複数回が8%、ちょうど1回が20%)。平均加入年数12年から計算すると、ある年に配分を変える人は全体の2.5%未満になる、と論文は述べている。

その間、両ファンドの運用成績には絶対的にも相対的にも大きな変動があった。それでも配分は動かなかった。

「不安の予測」は、どちら向きに外れるか

現状維持バイアスの話は、「動けない」という現象の説明にはなる。でも転職の不安には、もうひとつ別の成分がある。うまくいかなかったときの自分を、いまここで想像しているという成分だ。

面接に落ちたら。入った先が合わなかったら。あの選択は間違いだったと後悔し続けるのではないか——。

この「未来の自分の感情を予測する」働きは、感情予測(affective forecasting)と呼ばれて研究されてきた。1998年に Journal of Personality and Social Psychology に載った Gilbert・Pinel・Wilson・Blumberg・Wheatley の論文は、その予測が系統的に外れることを6つの研究で示している。

論文の説明はこうだ。人は、ネガティブな感情の経験をやわらげる認知的な仕組み——著者たちが心理的免疫システムと呼ぶもの——が働いていることに、たいてい気づいていない。その結果、嫌な出来事に対する自分の感情反応が、どれくらい長く続くかを過大に見積もる

6つの研究で扱われた出来事は、恋愛関係の解消、テニュア(終身在職権)審査の不合格、選挙での敗北、否定的な性格フィードバック、子どもの死を扱った記事、そして採用側からの不採用だった。

最後の研究(Study 6)は、転職を考えている人にいちばん近い設定になっている。参加者の一部(予測群)は、採用された場合と不採用だった場合それぞれについて、告げられた直後と10分後の気分を予測した。そのあと、予測群も予測をしなかった群も、実際にその出来事を体験して直後と10分後の気分を報告する。

予測と体験の両方を答えた参加者の分析で出たのは、その全員が、自分で思っていたよりも幸せだったという主効果だった(F(1,37)=22.24, p<.001)。

さらに細かい所見がある。この実験では、採用判断が「情報の乏しい1人によって下される」条件と「情報を持った複数人のチームによって下される」条件が用意されていた。参加者は、どちらの条件でも同じくらい落ち込むだろうと予測した。ところが実際には、不公正な(1人が決めた)条件で不採用になった人のほうが、10分後の時点で気分が良かった。しかも差は直後より10分後のほうが大きかった。

この実験の範囲で言えるのは、不公正な判断で断られた側のほうが10分後の気分が良かったということと、その差を参加者が予測できていなかったということだ。著者たちはこれを、心理的免疫システムが働きやすい状況とそうでない状況の違いとして説明している。理屈としてはわかる気がする——納得のいかない断られ方のほうが、心の中で言い返す余地があるということだ。ただし、これは2条件の対比であって、「納得できないほど回復が早い」という程度の勾配が確かめられたわけではない。

ここから先は私の受け取り方になる。転職の不安が「落ちたときの自分」の映像として来るとき、その映像はたぶん少し暗すぎる。実際の自分は、落ちた翌週にはもう別のことを考えているかもしれない。もちろんこれは1本の研究であって、あなたの来月を予言するものではない。ただ、予測の外れ方に方向性があるらしいことは、頭の隅に置いておいていい。

入ったあとに効くのは、何だったか

不安の中身をもう一段ほどくと、「入ってからやっていけるのか」という部分が残る。ここには、新しく組織に入った人の適応を扱った研究の蓄積がある。

Bauer・Bodner・Erdogan・Truxillo・Tucker が2007年に Journal of Applied Psychology に発表したメタ分析は、70の独立した標本をまとめて、新規参入者の適応のモデルを検証したものだ。

このモデルで「適応」として置かれているのは3つ。役割の明確さ(role clarity)自己効力感(self-efficacy)社会的な受容(social acceptance)。そしてこの3つが、組織側の社会化施策と本人の情報探索が、その後の成果——職務満足、組織コミットメント、職務遂行、留まる意図、離職——に及ぼす影響を媒介する、という構造になっている。分析の結果は、おおむねこのモデルを支持した、と抄録は述べている。

論文はあわせて、方法論の違いが結果を左右するかも検討している。縦断調査か横断調査か、対象が学校から仕事への移行か仕事から仕事への移行か、そして先行要因の測定方法。転職はこの真ん中——仕事から仕事への移行——にあたる。

私がこの枠組みを面白いと思うのは、並んでいるのが性格ではなく状況の変数だからだ。自分の役割がはっきりしているか。やれそうだと感じられているか。受け入れられているか。これらは会社の受け入れ方と、本人が情報を取りにいくかどうかで動く。少なくともこのメタ分析が組んだモデルの中では、適応は入社前に決まっている固定値として扱われていない。

面接で職場の受け入れ体制について聞くのは、遠慮すべきことではなく、この3つの手がかりを取りにいく行為だと思っている。

数字のほうも見ておく——賃金はどう動いたか

不安の大きな部分を占めるのが収入だと思う。ここは日本の統計が答えを持っている。

厚生労働省の「令和6年 雇用動向調査」によると、2024年の1年間に転職して入職した人の賃金変動は、前職と比べて「増加」が40.5%、「減少」が29.4%、「変わらない」が28.4%。内訳では「1割以上の増加」が29.4%、「1割以上の減少」が21.7%となっている。

前年との比較では、「増加」の割合が3.3ポイント上昇し、「1割以上の増加」は3.8ポイント上昇。「減少」は3.0ポイント低下した。「増加」が「減少」を11.1ポイント上回っている。

読み方には注意がいる。これは転職した人の実績の分布であって、あなたが転職したらどうなるかの予測ではない。転職する人としない人は最初から違う条件に置かれているし、業種や年齢によって内訳は変わる。集計の対象も、前職が雇用者で調査時点に在籍している転職入職者に限られていて、自営業からの転職入職者は含まれていない。

それでも、この数字は不安の解像度を少し上げてくれる。3割弱の人は賃金が下がっている。同時に4割は上がっている。「転職=給料が下がる」でも「転職=キャリアアップ」でもなく、分布があるだけだ。自分がどの層に近いのかを考えるほうが、漠然と怖がるより先に進む。

不安を消さずに、扱う

ここまでを踏まえて、私が現実的だと思う向き合い方を書いておく。研究の要約ではなく、私の考えとして読んでほしい。

不安をゼロにしてから動く、という順序は最初から無理がある。現状維持の側に系統的な重みがかかっているなら、「気持ちが完全に整ったら動く」という条件設定は、実質的に「動かない」を選んでいるのと近い。

代わりにできるのは、不安を具体的な問いに変換することだと思う。「怖い」は動かせないが、「入社後3か月で何を担当するのか」「教育担当はつくのか」「いまのチームは何人か」は聞ける。Bauer らのモデルで媒介変数に置かれていたものは、だいたい面接で質問できる範囲にある。

もうひとつ。選択肢を無限に広げないこと。選択肢が増えるほど現状維持への偏りが強くなるという所見を、確かめられた2〜4択の外へ延ばして考えるなら——ここは完全に私の推測だが——求人を100件眺める行為は、検討しているようで決断から遠ざかっているのかもしれない。選べなさそのものについては決断できないのはなぜ?『選べない自分』を研究から読み解くに整理してある。

そして、いつ動くかという問いには別の記事を用意している。HSPの転職タイミングと辞めたい時の判断基準と、実務的な進め方をまとめた内向型の転職サイト・エージェント完全ガイドがそれにあたる。面接という場面そのものが重いと感じる場合、その重さの正体は社交不安という概念の周辺にある。不安が身体反応として立ち上がる仕組みについては扁桃体にまとめた。

最後に、これは書いておかないといけない。仕事のことを考えると眠れない、朝起き上がれない、休日も回復しない——そういう状態が続いているなら、転職の検討より先に医療機関や産業医、厚生労働省のこころの耳のような相談窓口を使ってほしい。消耗しきった状態での判断は、選択肢を狭めた上での判断になりやすい。

よくある質問(FAQ)

転職が不安で決められないのは、慎重すぎるということですか?

慎重さの問題として片づけないほうがよさそうです。Samuelson と Zeckhauser(1988)の一連の実験では、同じ選択肢でも「現状」というラベルがついた選択肢が選ばれやすくなるという偏りが報告されています。さらに、選択肢の数が多いほど現状維持への相対的な偏りが強くなることも報告されました。ただしこの実験で操作された選択肢の数は2〜4択の範囲であり、求人サイトのように選択肢が膨大な状況にそのまま当てはまるかは、確かめられた範囲を超えます。それでも、決められなさの一部が性格ではなく意思決定の構造から来ている可能性は、考えてみる価値があります。

転職して失敗したら立ち直れないのではないかと思ってしまいます

その予測は、外れる方向に癖があることが知られています。Gilbert ら(1998)は、人がネガティブな感情をやわらげる認知的な仕組み(心理的免疫システム)に気づいていないため、嫌な出来事への感情反応がどれくらい続くかを過大に見積もることを6つの研究で示しました。そのうちのひとつは、採用側からの不採用を扱ったものです。予測と体験の両方を答えた参加者は、自分で思っていたよりも幸せだった、という結果が出ています。ただしこれは実験室での短時間の設定であり、現実の転職の結果を保証するものではありません。

転職すると給料は下がりますか?

日本全体の実績としては、下がる人より上がる人のほうが多いという分布になっています。厚生労働省の「令和6年 雇用動向調査」によれば、2024年に転職して入職した人のうち、前職と比べて賃金が「増加」した割合が40.5%、「減少」が29.4%、「変わらない」が28.4%でした。「増加」が「減少」を11.1ポイント上回っています。ただしこれは転職した人の実績分布であって、個人の見通しではありません。業種・年齢・雇用形態によって内訳は変わります。

新しい職場でうまくやっていけるか自信がありません

Bauer ら(2007)が70の独立した標本をまとめたメタ分析では、新規参入者の適応として役割の明確さ・自己効力感・社会的な受容の3つが置かれ、これらが組織の社会化施策や本人の情報探索と、職務満足・組織コミットメント・職務遂行・留まる意図・離職との間を媒介するモデルが検証されました。分析結果はおおむねこのモデルを支持しています。並んでいるのが性格特性ではなく状況の変数である点は、面接で受け入れ体制を確認する意味を裏づける材料になると考えています。

不安が強くて日常生活に影響が出ています。どうすればいいですか?

眠れない、食欲が落ちた、休日も回復しない、朝起き上がれないといった状態が続いている場合は、キャリアの検討より先に専門家に相談してください。産業医や医療機関のほか、厚生労働省のこころの耳で相談窓口を探すことができます。この記事で扱った研究は意思決定の傾向についてのものであり、不安症状の評価や治療の指針ではありません。


あの日、求人サイトのタブを閉じたのは、たぶん怖かったからではない。決めるという行為そのものを、明日に送りたかったからだ。

現状維持バイアスの論文には、冒頭にサミュエル・ジョンソンの言葉が引かれている。何もしないことは、すべての人にできる——という趣旨の一文だ。皮肉に読むこともできると思うけれど、私はどちらかというと救いのように受け取った。何もしないことがこれだけ強い引力を持っているなら、動けない自分を責める理由は、少なくとも一つ減る。

減ったぶんの体力で、質問をひとつ用意するくらいはできる。