反芻思考という言葉を最初に見たとき、正直ぴんと来なかった。牛が草を戻して噛み直すあれと、深夜に布団の中で三年前の失言を再生し続けるあれが、同じ語で呼ばれている。比喩としては的確すぎて、逆に何も説明していない気がした。
けれどこの語は、心理学のなかではもっと狭く、もっと具体的に定義されている。定義があり、測る尺度があり、その尺度を分解した論文があり、分解した結果として「ぐるぐるにも二種類ある」と言い出した研究がある。日常語としての考えすぎは気にしすぎる性格は変えられる?のほうに整理したので、ここでは学術概念としての反芻思考だけを追いかける。
反芻思考は、何を指している言葉なのか
出発点は Susan Nolen-Hoeksema が1991年に提唱した反応スタイル理論(response styles theory)だ。Nolen-Hoeksema・Wisco・Lyubomirsky が2008年に Perspectives on Psychological Science に発表したレビューは、この理論のおよそ20年ぶんの検証結果をまとめている。
そこでの反芻の定義はこうだ。苦痛への反応の仕方のひとつで、苦痛の症状そのものと、その症状の考えうる原因・結果に、繰り返し受動的に注意を向けること。そして重要な但し書きが続く。反芻は、症状を取り巻く状況を変えるための能動的な問題解決には至らない。反芻している人は、問題とそれについての自分の感情に固着したまま、行動を起こさない。
もうひとつ、著者らは反芻を思考の内容ではなくプロセスとして定義している。中身がネガティブかどうかではなく、自分の感情と問題について「執拗に考え続ける」という形式のほうを指している。だから「悩んでいる内容が深刻だから反芻だ」ではないし、逆に内容が些細でも形式が同じなら反芻に当たる。
このレビューは、自己に注意を向けることを扱った先行のメタ分析(Mor & Winquist, 2002)を引きながら、自己焦点的注意のさまざまな形のなかで、抑うつ症状と最も強く一貫して関連していたのが反芻だった、と述べている。

反芻していると、何が起きるとされているか
レビューは、支持されてきた知見として4つの帰結を挙げている。順に見ていく。
このうち多くは、実験室での「誘導」を使って調べられている。参加者に8分間、自分の気分や状態に注意を向ける文(「いま感じている意欲の水準について考えてください」など)を提示するのが反芻誘導、自分と無関係なイメージ(「ゆっくり首を振る扇風機について考えてください」など)を提示するのが気そらし誘導だ。抑うつ的な気分にある参加者では、反芻誘導のあとに気分がさらに落ち込み、気そらし誘導のあとには一時的に改善する。抑うつ的でない参加者では、どちらの誘導でも気分は動かない。
否定的な思考が増える。 反芻を誘導された抑うつ傾向の参加者は、自分を批判し、現在の問題について自分を責め、問題を乗り越える自信と楽観を失う。仮想の出来事を提示されると、成功を過小評価し失敗を過度に一般化する解釈を選びやすくなる。
問題解決が悪くなる。 問題を「圧倒的で解決不能」と評価し、有効な解決策を思いつけなくなる。臨床的なうつ病の患者でも同様の結果が出ている。
思いついても、実行されない。 ある実験では、反芻した学生たちは「もっと勉強する」「支出を減らす」といった、それ自体は真っ当な解決策をちゃんと出していた。にもかかわらず、それを実際に実行する見込みは下がっていた。
周りとの関係が細る。 死別を経験した成人を対象にした研究では、反芻傾向のある人はむしろ他者に支援を求めやすかった。だが同時に、より多くの摩擦と、より少ない情緒的支援を報告していた。求めた量と、受け取れた量が一致していない。
深夜に机の上を片づけながら「明日こそ返信しよう」と思い、翌朝また同じ位置から考え直す——あの感じを、研究は「解決策の生成」ではなく「実行の抑制」の問題として測っていたわけだ。私はここを読んで、少しだけ救われた気がした。思いつけていないのではなく、思いついたあとで止まっている。
予測していたのは「長さ」ではなく「始まり」だった
反応スタイル理論は当初、反芻は抑うつの持続を予測するはずだと述べていた。ところが検証を重ねるうちに、支持されなかった予測が出てきた。レビューはそれを正面から扱っている。
Nolen-Hoeksema(2000)は、地域から無作為に抽出した約1,300人の成人を追跡した。初回調査時点で大うつ病エピソードにいなかった人では、そのときの反芻得点が、その後1年間の新規発症を予測した(発症は構造化面接で評価されている)。一方、初回時点ですでにエピソード中だった人では、反芻得点は1年後もエピソードが続いているかどうかを予測しなかった。
同じパターンが他でも出ている。Just と Alloy(1997)は、大学生の反芻得点が18か月間の新規の抑うつ症状の発現を予測したが、すでに抑うつ的だった学生の症状の持続は予測しなかったと報告した。Lara・Klein・Kasch(2000)は、大うつ病の基準を満たす大学生84人を6か月追い、反芻がうつの持続や寛解までの時間を予測しなかったとしている。
ただし、持続を予測した研究もある。Kuehner と Weber(1999)は、治療終了時点の反芻が3か月後のエピソードを予測したと報告した。さらに2件の研究では、反芻と否定的認知スタイルの交互作用が、診断されたエピソードの持続を予測している。歪んだ思考と、そこに受動的に留まり続ける傾向。この組み合わせが揃ったときに長引く、という読み方になる。
なぜ持続の予測が安定しないのか。レビューは、身も蓋もない統計的な説明も併記している。うつ病を発症しやすい人はそもそも反芻しやすいので、すでにうつ状態の人ばかりを集めた標本では反芻得点のばらつきが小さくなり、検出力が落ちる。加えて多くの研究が初期の抑うつ水準を統制しているが、反芻はその初期水準と相関しているから、統制した時点で予測力がさらに削られる。
そのうえで、著者らが「より興味深い可能性」として挙げているのがこれだ。反芻は、憂うつからうつ病エピソードへ「線を越える」ことに寄与するが、いったんエピソードに入ると、それを維持する別の自律的な過程が動き出すのではないか。理論そのものが、証拠に合わせて書き換えられている。この書き換えのプロセスが読めることが、このレビューのいちばんの価値だと思う。
なお、女性のほうが反芻しやすいとする研究は複数あり、反芻の性差が抑うつの性差を媒介したとする報告もある。また反芻は抑うつだけでなく、不安、過食、暴飲、自傷とも関連することが示されてきた、とレビューは述べている。
ぐるぐるは一種類ではない
ここからが、この記事でいちばん書きたかったところだ。
反芻を測る標準的な尺度に、反応スタイル質問票の反芻反応尺度(RRS)がある。この尺度には以前から批判があった。「どれだけ孤独かについて考える」「集中するのがどれだけ難しいかについて考える」——こうした項目は、抑うつの症状そのものの記述とほとんど見分けがつかない。それなら「反芻が高い人は抑うつも高い」という関連は、同じことを二度測っているだけかもしれない。
Treynor・Gonzalez・Nolen-Hoeksema が2003年に Cognitive Therapy and Research に発表した研究は、この疑いを潰しにいったものだ。用いたのは、カリフォルニア州オークランド・サンフランシスコ・サンノゼ地域から無作為抽出された地域住民を1年間に2回面接した既存データだ。元データはTime 1が1,328人、Time 2が1,131人で、この論文の解析は両時点に回答した約1,130人に限定されている。ここから、抑うつ尺度(BDI)の項目と内容が重なる12項目を取り除き、残った10項目を主成分分析にかけた。
出てきたのは2因子だった。固有値はそれぞれ1.64と3.41で、合わせて分散の50.5%を説明している。
- reflection(内省)——中立的な言い回しの項目群。「自分の感情について考えるために、ひとりになれる場所へ行く」のように、内面へ意図的に向かい、認知的な問題解決を試みる方向を含む
- brooding(ブルーディング/思い悩み)——すべて否定的な色合いを持ち、すべて「think(考える)」で始まる項目群。「『これを受けるようなことを自分が何かしたか』と考える」「『なぜ自分にだけこんな問題があるのか』と考える」など
論文はブルーディングを、辞書的な「不機嫌に思いを巡らす」の語義を引きながら、現状と、達成されていない基準とを受動的に比べることと特徴づけている。
そして結果はこうだった。1年後の抑うつ得点は、reflection と brooding の両方から予測されたが、reflection の係数は負だった。ブルーディングのほうは、同時点でも1年後でも一貫して抑うつと正の方向に結びついている。
ここは慎重に読む必要がある。符号が負に転じるのは、ブルーディングと初期の抑うつを同時に投入したモデルの中だけだ。単純な相関で見れば、内省は同時点で r = .12、1年後でも r = .08 とわずかに正の側にある。著者ら自身、内省が抑圧変数として働いている可能性を指摘している。内省が抑うつを下げる、という単純な話ではない。
性差の話も明快だ。抑うつ・内省・ブルーディングのいずれも女性の平均が高かった(Cohen の d はそれぞれ .24、.16、.22)が、抑うつの性差を媒介していたのはブルーディングだけで、内省は媒介の条件を満たさなかった。
内省の側が完全に「良いもの」だと確定したわけではない点は書いておきたい。2008年のレビューは、この第二因子を扱った別の研究(Joormann ら, 2006)を紹介していて、そこでは内省寄りの得点も現在の抑うつと正の関連を示し、否定的な記憶バイアスとも関連していた。短期的には苦しく、長期的には役に立つ——それが内省の正体かもしれない、というのが現時点での書きぶりだ。
「なぜ」ではなく「どう」
分かれ目はどこにあるのか。この問いに正面から答えようとしたのが、Edward R. Watkins が2008年に Psychological Bulletin に発表した総説だ。2007年半ばまでの文献を Web of Science・PsycINFO・MEDLINE で系統的に検索し、横断・縦断・実験のデザインを横断して整理している。
出発点は、反復思考(repetitive thought)は建設的にも非建設的にもなりうるという観察だ。非建設的な帰結として挙がるのは抑うつ、不安、身体的健康の問題。建設的な帰結として挙がるのは、動揺する出来事やトラウマからの回復、適応的な準備と先を見越した計画、抑うつからの回復、そして健康によい行動を取り入れることである。
同じ「考え続ける」が、なぜ真逆に振れるのか。総説は3つの要因を挙げる。思考内容の感情価(否定的か肯定的か)、その人の気分や自己観・環境といった文脈、そして解釈レベル——つまり抽象的で評価的な考え方か、具体的で体験に即した考え方かである。
三つ目がいちばん実用的だと思う。抑うつの患者を対象にした研究では、具体的な反芻のほうが抽象的な反芻より、否定的な自己判断を減らし問題解決を改善した。苦痛を与える映像を見せたあとの処理を比べた実験(学部生を対象としたアナログ研究)でも、具体的な処理のほうが侵入的な思考が少なかった。学業成績の研究では、結果を思い描くシミュレーションより、手順を思い描くシミュレーションのほうが優れていた。
「なぜ自分はこうなのか」は抽象で評価的だ。「明日の10時に、あの一通をどう書き出すか」は具体で手順的だ。同じ時間、同じ姿勢で考えていても、後者は前に進む。この違いを、私は長いこと「気合いの差」だと思っていた。
止め方について、研究が言えること
反芻に的を絞った治療の試験もある。Watkins らが2011年に The British Journal of Psychiatry に発表した第II相ランダム化比較試験だ。
背景にあるのは、大うつ病エピソードの約20%が慢性化・薬物抵抗性となり、標準的な認知行動療法にも反応しにくいという問題である。この試験では、薬物抵抗性の残遺うつ病のある42人が、通常治療(TAU)のみと、TAUに最大12セッションの反芻焦点化認知行動療法(RFCBT)を加える群にランダムに割り付けられた。
結果、寛解率は通常治療のみで21%、RFCBTを加えた群で62%。残遺症状も寛解率も有意に改善し、反芻は治療群でより大きく減少した。媒介分析では、治療効果と反芻の変化が統計的に結びついていた。
ただし、著者ら自身が並べている限界は重い。まず、反芻と抑うつを同時点で測っているため、両者の時間的な前後関係が特定できない。論文はこの点を明記していて、症状が改善した結果として反芻が減った、という逆向きの因果を排除できないと述べている。狙ったところが動いて効果を運んだ、と読みたくなるが、そこまでは言えない。加えて、この試験には注意統制群がないため、効果がRFCBTの固有の内容によるものか、治療を受けること自体の非特異的な効果によるものかも区別できない。42人という規模も、確立された治療の検証としては小さい。第II相、つまり有望さを確かめる段階の試験だと受け取るのが妥当だと思う。
日常の工夫のレベルでは、Watkins の総説が示した抽象/具体の軸が手がかりになる。評価から離れて「いま起きていること」に注意を戻す練習という点で、私はマインドフルネスの枠組みを連想する。ただしこれは今回読んだ4本が言っていることではなく、あくまで私の連想だ。自分を責める向きの反芻が止まらないときは、セルフコンパッションは、何を測っているのかで扱ったメタ分析が、反芻を対象とした効果量を報告している。仕事の文脈で消耗が続いているなら、燃え尽き症候群とは何かのほうが近いかもしれない。反芻しやすさが神経症傾向と相関することも繰り返し報告されているので、性格特性の枠組みはビッグファイブにまとめてある。
そして、ここが大事なところだ。落ち込みが2週間以上続く、眠れない、食欲が落ちた、日常生活に支障が出ている——そうした状態があるなら、考え方の工夫より先に医療機関に相談してほしい。この記事で紹介した研究は、いずれも診断や治療の指針ではない。厚生労働省のこころの耳から相談窓口を探すことができる。
よくある質問(FAQ)
反芻思考とはどういう意味ですか?
反応スタイル理論(Nolen-Hoeksema, 1991)における反芻は、苦痛への反応の仕方のひとつで、苦痛の症状そのものと、その症状の考えうる原因・結果に、繰り返し受動的に注意を向けることを指します。2008年のレビュー(Nolen-Hoeksema・Wisco・Lyubomirsky)は、反芻が症状を取り巻く状況を変えるための能動的な問題解決には至らず、人は問題とそれへの感情に固着したまま行動を起こさない、と説明しています。また同レビューは、反芻を思考の内容ではなくプロセス(自分の感情と問題について執拗に考え続けること)として定義しています。
反芻思考と内省(振り返り)はどう違うのですか?
Treynor・Gonzalez・Nolen-Hoeksema(2003)は、反芻反応尺度から抑うつ項目と内容が重なる項目を除いたうえで主成分分析を行い、reflection(内省)と brooding(思い悩み)の2因子を得ました。1年後の抑うつ得点を予測する分析では、brooding が一貫して正の方向に結びついた一方、reflection の係数は負でした。また、抑うつの性差を媒介していたのは brooding のみで、reflection は媒介の条件を満たしませんでした。ただし reflection の符号が負になるのは他の変数を統制したモデルの中だけで、単純な相関では1年後もわずかに正(r = .08)であり、著者らは内省が抑圧変数として働いている可能性を指摘しています。別の研究でも内省寄りの得点は現在の抑うつと関連しており、内省が無条件に適応的だと確定したわけではありません。
反芻思考があると、うつ病になるのですか?
因果を断定できる段階ではありません。Nolen-Hoeksema(2000)が地域から無作為抽出した約1,300人を1年追った研究では、初回時点でうつ病エピソードにいなかった人において、反芻得点が新規発症を予測しました。一方、すでにエピソード中だった人では、1年後も続いているかどうかを予測しませんでした。同様のパターンは他の縦断研究でも報告されています。反芻はリスク要因として繰り返し観察されていますが、反芻があれば発症するという関係ではありませんし、単一の研究で証明されたものでもありません。
反芻思考を止めるには、どうすればいいですか?
研究が比較的はっきり示しているのは、考える「量」より「かたち」のほうです。Watkins(2008)の総説は、反復思考が建設的にも非建設的にもなりうるとしたうえで、その分かれ目のひとつとして解釈レベル——抽象的で評価的か、具体的で体験に即しているか——を挙げています。抑うつの患者を対象にした研究では、具体的な処理のほうが否定的な自己判断を減らし、問題解決を改善したことが報告されています。「なぜ自分はこうなのか」から「次の一手をどう動かすか」へ寄せる、という方向です。ただし、これは自己流の工夫の話であり、治療の代わりにはなりません。
反芻に特化した治療法はありますか?
Watkins ら(2011)は、薬物抵抗性の残遺うつ病のある42人を対象に、通常治療のみと、通常治療+最大12セッションの反芻焦点化認知行動療法(RFCBT)を比較したランダム化比較試験を報告しています。寛解率は通常治療21%に対しRFCBT群62%で、媒介分析では治療効果と反芻の変化が統計的に結びついていました。ただし著者ら自身が限界を明記しています。反芻と抑うつを同時点で測っているため両者の時間的な前後関係を特定できず、症状が改善した結果として反芻が減った可能性を排除できないこと。また注意統制群がないため、RFCBT固有の内容による効果か非特異的な治療効果かを区別できないこと。規模も42人と小さく、有望さを確かめる段階の知見です。
なお、気分の落ち込みが2週間以上続く、眠れない、食欲が落ちた、日常生活に支障が出ているといった状態がある場合は、セルフケアの工夫だけで対処しようとせず、医療機関や専門家に相談してください。厚生労働省のこころの耳から相談窓口を探すことができます。
一連の論文を読み終えて、いちばん印象に残ったのは Treynor らの論文の冒頭だった。窓辺に座り、外ではなく内側を見ている女性の描写から始まる。彼女は「どうして自分はこう感じるようになったのか」と繰り返し自分に問い、理解を通じて回復しようとする。そして問いは彼女を、回復へ向かう道からどんどん遠ざけていく。
学術誌の論文にしては、ずいぶん文学的な入り方だ。でもこれ以上正確な説明を、私は思いつかない。反芻の厄介さは、それが怠惰でも逃避でもなく、真面目に理解しようとする努力の形をしていることにある。だから止めにくい。止めようとすると、考えることを放棄するように感じてしまう。
研究が示しているのは、考えるのをやめろということではなさそうだ。同じ真面目さを、「なぜ」から「どう」に付け替えられるかどうか。今夜のところは、そのくらいの区別だけ持って帰ろうと思う。