ノイズキャンセリングをオンにした瞬間の、あの感じ。空調の唸りが吸い込まれるように消えて、世界が一段沈む。初めて体験したときは、正直ちょっと感動した。
ただ、しばらく使っていると気づくことがある。いちばん邪魔だったはずの音は、たいてい残っている。斜め後ろの雑談、電話の声、通路の笑い声。世界は静かになったのに、集中は戻っていない。
この体感が研究でどう扱われているのか、出典をたどって整理してみた。結論から言うと、実験室のデータはかなり容赦なかった。

ANCが物理的に得意なのは、低くて続く音
まず技術の側から。
ChengらがIEEEの Journal of Translational Engineering in Health and Medicine に発表した論文(聴力検査へのANC応用を扱ったもの)は、ANC技術の性質をこう説明している。ANCは音の重ね合わせと打ち消し干渉の原理に依拠しており、典型的には低周波の騒音を消すのが得意である。一方で、高い周波数では効果が落ちる。波長が短くなるほど、正確な逆位相の信号を生成することが難しくなるからだ。
さらに具体的な線引きも書かれている。2kHzを超える帯域では、騒音低減はイヤーチップの密閉やハウジングの音響特性といった、物理的な設計による受動的な遮音に大きく依存する。つまり2kHzから上は、ANCというより「耳を覆っている」ことの効果になる。
ここまでは物理の話だ。問題は、この得意分野が、私たちを困らせている音と重なっているかどうかになる。
ところが成績を落としていたのは、断続する人の声だった
重なっていなかった。
SzalmaとHancockが2011年に Psychological Bulletin に発表したメタ分析は、騒音が人の遂行に与える影響を扱った研究を大規模に統合している。そこで音を種類で分けた結果、会話音の効果量は g = −0.43(95%CI: −0.56〜−0.30)、会話以外の音は −0.16(−0.24〜−0.08)だった。会話音のほうがはっきり大きい。
さらに鳴り方と掛け合わせると差は開く。断続する会話音は g = −0.80(−0.97〜−0.63)で、この分析のなかで突出して大きい負の効果を示した。対して連続する非会話音は −0.24、断続する非会話音は 0.06 で信頼区間がゼロをまたいでいる。
止まったり始まったりする、人の声。それが最も成績を落としていた。音の種類ごとの内訳や、落ちるのが速さではなく正確さのほうだったことは耳栓の効果はどこまで示されているかに詳しく整理してある。
人の声の主要な帯域は、ANCがいちばん得意な低域より上にある。この点は後述するRadunらの論文がさらに具体的で、ANCが音圧レベルを下げるのは500 Hzより下の帯域である一方、話し言葉の聞き取りやすさ(およびその指標であるSTI)は主に500 Hzより上の帯域に依存すると書かれている。得意な音と、困っている音が、はじめからずれている。
実験室でANCを試すと、成績はほとんど動かなかった
では実際に測るとどうなるか。ここに直接の検証がある。
Müller、Liebl、Martin が2019年の国際音響学会議(ICA 2019)で報告した実験は、オープンスペースオフィスを模した音環境を作り、21名(21〜69歳、平均28.52歳)に系列再生課題(9個の数字の順序を8秒後に再現する)をやってもらったものだ。条件は4つ——静寂、ヘッドホンなしの音声、ANCオフのヘッドホン、ANCオンのヘッドホン。
誤答率はこうなった。
| 条件 | 誤答率 |
|---|---|
| ヘッドホンなし | 49.3% |
| ANCオフ | 46.1% |
| ANCオン | 42.4% |
| 静寂 | 32.7% |
分散分析では条件の主効果が有意だった(F(3, 60) = 8.64, p < .001, η² = .30)。ただし、有意差が出たのは静寂と他の3条件のあいだだけである(静寂—ヘッドホンなし t = −4.00, d = −1.18/静寂—ANCオフ t = −3.03, d = −0.97/静寂—ANCオン t = −3.63, d = −0.46。数値は後述の査読版で多重比較を補正したもの)。
一方で、ヘッドホンなし—ANCオン、ヘッドホンなし—ANCオフ、ANCオン—ANCオフのいずれも有意差はなかった。結論はそのまま書かれている——ヘッドホンは、ANCの有無にかかわらず、認知パフォーマンスに有意な影響を与えるようには見えなかった、と。
同じ研究グループは2022年、Frontiers in Built Environment にこの実験と57名(19〜56歳、平均27.53歳)を対象とした第2実験をまとめて発表している。そこでも認知課題の結果は変わらなかった。論文のタイトル自体が「認知パフォーマンスへの影響はないが、知覚されるプライバシーと音環境は改善する」と言い切っている。
以降の統計値は、会議録ではなくこの査読版(Bonferroni補正済み)のものを使う。会議録の段階では補正前の値が載っており、一部の比較は補正すると有意でなくなるからだ。
数字を、正確に受け取る
誤答率の並びを見ると、ANCオン(42.4%)はヘッドホンなし(49.3%)より低い。だから「多少は効いている」と読みたくなる。私も最初そう読んだ。
でもこの差は統計的に有意ではなかった。21名という標本で、この程度の差は偶然の範囲から区別できていない、というのが正確な読み方になる。効いていないと証明されたわけでもないが、効いていると言える根拠もこの実験にはない。
そして忘れてはいけないのが、静寂の32.7%だ。静かな環境は、はっきり成績を上げていた。ANCは、その静かさの代わりにはなっていなかった。
「感じ方」のほうは動いた。ただし、動く条件は限られていた
ここで話が終われば、ノイキャンは無意味という話になる。ならなかった。ただし、ここも思ったより繊細だった。
同じ実験で、主観的な評価は大きく動いている。うるささ(annoyance)の評定では条件の主効果が非常に強く出た(F(3, 60) = 132.24, p < .001, η² = .869)。そしてヘッドホンなし—ANCオンの差は、第1実験でも第2実験でも有意だった。著者らは「両方の実験で、ANCヘッドホンをオンにしたときのうるささ評定が統計的に有意に低かった」と明記している。
ただし、ヘッドホンなし—ANCオフの差は、多重比較を補正すると有意ではなくなる(p = 0.10)。ここは会議録の段階では有意(p = .014)と報告されていた箇所で、査読版で判定が変わった。著者らはこの結果を「ANCのアルゴリズムが主観的な改善をもたらしていることを示す」と読んでいる。うるささが下がったのは、ヘッドホンを載せたからではなく、ANCをオンにしたからだ、という読み方になる。
「集中できている感じ」も同じ形をしている。ヘッドホンなし—ANCオンの差は両実験で有意(第1実験 d = −0.83、第2実験 d = −0.35)。一方、ANCオン—ANCオフの差は、補正すると有意ではない(p = 0.326)。会議録では p = .047 とぎりぎり閾値を割っていた比較で、ここも査読を経て消えている。誤答率のほうを「有意でないから偶然と区別できていない」と厳しく扱う以上、主観の側にだけ甘い基準を当てるわけにはいかない。
もうひとつ、第1実験(21名)だけで尋ねた設問がある。話者との知覚上の距離が、ヘッドホンなしの1.80mからANCオン時には4.50mまで伸びたという結果だ。実際の距離は変わっていない。声が、遠くなったように聞こえていた。ただしこの設問ではヘッドホンなし—ANCオフの差も有意で(d = −0.83)、ANCオン—ANCオフのあいだには有意差がない(p = 0.168)。距離感の延伸は、ANC固有の効果というより装着そのものの寄与を含んでいる。
主観が変わることを、軽く見なくていい
ここから先は私の受け取り方になる。
「成績は変わらないが気分は良くなる」と要約すると、プラセボめいた話に聞こえる。でも一日八時間、他人の声のなかに座っている人にとって、うるささの評定が下がることは、それ自体がかなり実利のある変化だと思う。研究者たち自身、主観の改善だけでもオープンプランオフィスでANCヘッドホンを使う理由になり得ると書いている。同時に彼らは、遮蔽壁や音マスキングといった室内音響・組織的な対策をANCヘッドホンで置き換えるべきではないとも明記している。
ただし次の節で見るとおり、この主観の改善すら、別の研究チームの実験では再現していない。ここは「確実に効く」と言い切れる場所ではない。
私自身、在宅で仕事をしていた時期にノイキャンを買った。作業量が増えた実感はない。ただ、夕方の消耗の仕方は変わった。それが成績の話でないことは、いま研究を読んで納得した。集中環境そのものの作り方は在宅ワークで集中できる環境の作り方に別途まとめている。
マスキング音を足すと、結果が変わる
もうひとつ、別のグループによる検証がある。こちらは処方箋に近い。
Radunら(トゥルク応用科学大学)が2021年のICBEN会議で報告した実験は、55名(32名が女性、平均23.7歳)を対象に、5条件を比較したものだ。無関係な会話音を52 dB LAeq で流しながら、①ヘッドホンなし、②ヘッドホンのみ、③ヘッドホン+ANC、④ヘッドホン+マスキング音、⑤ヘッドホン+ANC+マスキング音。マスキング音は広帯域のノイズで、ヘッドホンから51 dB LAeq で再生された。
使われたのは市販の密閉型オンイヤーANCヘッドホンで、装着するだけで会話音のレベルが10 dB LAeq 下がったと報告されている。受動的な遮音が、そこそこ効いていることになる。
結果はこうだ。系列再生の正答率は、条件全体では影響を受けなかった(F(4, 212) = 1.8, p = 0.137)。ただし、騒音感受性が高い群(22名)では、条件④と⑤(マスキング音あり)のほうが条件①より正答率が高かった。主観的な会話音のうるささは、条件⑤で条件①より低かった。
そしてここが重要なのだが、ANCだけをオンにした条件③と、ヘッドホンなしの条件①のあいだには、主観的なうるささにも有意差が出ていない。論文はこう書いている——密閉型オンイヤーヘッドホンのANC機能は、会話によるうるささにも作業成績にも効果を持たなかった。そして著者ら自身、この「うるささへの効果の不在」は予想外であり、ANCヘッドホンがオフィスでの不快な騒音から人を守れるという一般通念に反すると明記している。
前の節で見たMüllerらの実験では、ANCオンでうるささが有意に下がっていた。ここでは下がらなかった。主観の改善さえ、実験によって割れている。「うるささは確実に軽くなる」と要約するのは、この二本を並べた時点でできない。
論文自身の結論は処方箋の形をとっている。ANCヘッドホンで良い効果を得るには、マスキング音を伴わせるべきである。ANCは追加的な利益をもたらし得るが、それはマスキング音がある場合に限られる。
効き方に個人差があった、という点
騒音感受性が高い群でだけ成績の差が出た、というのは見落としたくないところだ。同じ道具でも、届き方が違う人たちがいる。ただしこれは群を分けた探索的な分析での所見なので、「感受性が高い人にはノイキャンが効く」と一般化するには早い。音への反応の個人差そのものについては感覚処理感受性と内向性・外向性に整理してある。
この研究群から、言えないこと
正直に置いておきたい限界がいくつかある。
ひとつ、標本が小さい。21名、57名、55名。効果がないことを示すには、本来もっと大きな標本が要る。「差が検出されなかった」は「差がない」とイコールではない。
ふたつ、課題が系列再生に偏っている。数字の順序を短時間で覚えて再現する課題は、会話音の妨害を受けやすいことが知られている一方で、あなたの仕事とは似ていないかもしれない。コードを書く、文章を推敲する、図面を引く——それぞれで結果は変わり得る。
みっつ、実験は数十分の話である。一日中、あるいは数ヶ月使い続けたときの累積は測られていない。夕方の消耗が変わる、という私の実感を支えるデータは、ここにはない。
よっつ、機種が違えば遮音特性も違う。Radunらの実験で使われたのは密閉型オンイヤーの一機種で、装着だけで10 dBの減衰があった。開放型やインイヤー型では前提が変わる。
買う前と、使うときに考えること
以上を踏まえて、私が実際に基準を変えたところを書いておく。
「どれだけ静かになるか」で選ぶのをやめた。 ANCが得意なのは低域の連続音で、成績を落としていたのは断続する人の声だった。カタログの騒音低減量は主に前者の指標になる。選ぶなら、声の帯域に効く受動的な遮音——つまり物理的な密閉のほうを見たほうがいい。Müllerらの2022年の論文も、使用したヘッドホンについて、スイッチを切っていても1,000 Hzより上の帯域で20〜30 dBの受動的な減衰があったと報告している。声を遠ざけているのは、かなりの部分がこの物理的な密閉だ。密閉型のオーバーイヤーか、しっかり密閉されるインイヤーか、という話になる。
マスキング音を併用する。 Radunらの結果でいちばん実践的なのはここだった。ANCだけをオンにして無音で座るのではなく、ホワイトノイズや環境音を小さく流す。会話が「聞き取れない」状態まで持っていくのが目的で、音量を上げることが目的ではない。
静かな場所が選べるなら、そちらを選ぶ。 静寂条件の32.7%という数字が、この記事でいちばん強いデータだった。会議室が空いているなら移動する。集中したい時間帯を在宅に寄せる。ノイキャンは、その選択肢が無いときの次善策として置く。
音そのものへの対処の全体像は音に敏感すぎて辛いときの原因と対処法に、職場で使える道具の整理はオフィスの刺激対策グッズにまとめてある。
なお、周囲の音を消したいあまり再生音量が上がりがちになる点は注意したい。耳の詰まりや耳鳴り、聞こえにくさが続く場合は、我慢せず耳鼻咽喉科で相談してほしい。
よくある質問(FAQ)
ノイズキャンセリングを使えば集中力は上がりますか
実験室での検証では、そうはなりませんでした。Müllerらの2019年の実験(21名)では、系列再生課題の誤答率はヘッドホンなし49.3%、ANCオフ46.1%、ANCオン42.4%で、この3条件のあいだに有意差はありませんでした。有意差が出たのは静寂(32.7%)と他の3条件のあいだだけです。同じ研究グループが57名で行った第2実験を含む2022年の査読論文でも、認知パフォーマンスへの影響は認められていません。Radunらの2021年の実験(55名)でも、系列再生の正答率は条件全体では影響を受けませんでした(F(4, 212) = 1.8, p = 0.137)。ただし標本が小さく課題も限られるため、「効果がないと証明された」わけではなく、「この条件では差を検出できなかった」というのが正確な読み方です。
では何のためにノイズキャンセリングを使うのですか
主観的な評価のほうは動いています。Müllerらの2022年の査読論文では、うるささの評定も「集中できている感じ」も、ヘッドホンなしとANCオンのあいだで両実験とも有意な差がありました。第1実験(21名)では、話者との知覚上の距離がヘッドホンなしの1.80mからANCオン時に4.50mへ伸びたとも報告されています。研究者らは、主観的な知覚の改善だけでもオープンプランオフィスでの使用を正当化しうると述べる一方、遮蔽壁や音マスキングといった対策をANCヘッドホンで置き換えるべきではないとも書いています。ただしRadunらの2021年の実験では、ANCのみをオンにした条件とヘッドホンなしの条件のあいだに主観的なうるささの有意差が出ておらず、著者らはこれを予想外で一般通念に反する結果だと述べています。主観の改善も、研究によって割れます。
人の話し声にノイズキャンセリングが効きにくいのはなぜですか
ANCは音の打ち消し干渉を使う技術で、Chengらの論文によれば低周波の騒音を消すのが得意な一方、波長の短い高い周波数では正確な逆位相信号を作りにくく効果が落ちます。2kHzを超える帯域の低減は、イヤーチップの密閉やハウジングといった受動的な遮音に大きく依存するとされています。一方でSzalmaとHancockの2011年のメタ分析では、成績への負の影響が最も大きかったのは断続する会話音(g = −0.80)でした。ANCが得意な音と、実際に成績を落としている音がずれている、という構図になります。
ホワイトノイズを一緒に流したほうがよいのですか
Radunらの2021年の実験(55名・5条件)は、その方向を支持しています。系列再生の正答率は条件全体では変わらなかったものの、騒音感受性の高い群(22名)ではマスキング音を併用した条件のほうがヘッドホンなしより正答率が高く、主観的な会話音のうるささはANC+マスキングの条件でヘッドホンなしより低くなりました。逆に、ANCのみをオンにした条件はヘッドホンなしと有意差がありませんでした。論文は「ANCヘッドホンで良い効果を得るにはマスキング音を伴わせるべきで、ANCが追加の利益をもたらすのはマスキング音がある場合に限られる」と結論しています。ただし群別の所見であり、一般化には慎重さが要ります。
高価な機種ほど効果がありますか
ここに直接答える研究は、今回たどった範囲では見つかりませんでした。参考になるのは、Radunらの実験で使われた密閉型オンイヤーのANCヘッドホンが、装着するだけで会話音を10 dB LAeq 下げていたという記述です。声の帯域はANCの得意領域より上にあるため、実際に会話を遠ざけているのは受動的な遮音——つまり物理的な密閉の性能である可能性があります。価格帯よりも、装着したときにきちんと密閉されるかどうかを確かめるほうが、この研究群の示す方向には合っています。
いま、これを書きながらノイキャンをつけている。空調は消えていて、廊下の話し声はうっすら残っている。研究を読む前は、この残りかたを性能の不足だと思っていた。いまは、そもそもそういう道具だったのだと思っている。静けさは買えなかったけれど、距離は少し買えた。四畳半ぶんくらいは。